人物の見方・考え方|気骨と実力ある男「西堀栄三郎」(長文)

西堀栄三郎について、何度か書きましたが、実は、彼を「大嫌いだ」という人たちもいます。
あまり語られない話ですが、人物をみるときの見方考えたということで、今回はそのことを書きましょう。

日本人が大好きな「タロとジロ」の物語をご存知でしょうか。

南極に置き去りにされた樺太(カラフト)犬たちの中で、二匹だけが厳しい寒さに耐えて生き残り、無事に救助されたという話です。

日本中を感動につつみ、小説にも絵本にも、そして映画にもなりました。

実は、犬たちを置き去りにするという決定を下したのが、そのときの第一次南極越冬隊の隊長 西堀栄三郎だといわれることがあって、「全国民の敵」くらいに思われたこともあったようです。もちろん置いていった隊員たちも避難の的となりました。

1957年/昭和32年、第一次南極越冬隊を迎えて、第二次越冬隊の隊員を送るために南極にたどり着いた「宗谷」は、最悪の天候と張り出した氷とに阻まれ、日本の昭和基地まで近づくことができません。
氷に囲まれて自分たちも身動きできなくなるか、あるいは越冬隊員を救助できないまま引き返すかということも考えたようです。
そして昭和基地にいる西堀榮三郎たちも、日本に戻らず南極に残るという選択肢を考えた様です。

そんな中、アメリカの砕氷船への援助も要請し、小型の飛行機が命がけで昭和基地まで飛びます。
そして、かろうじて隊員を無事救助したというのが、そのときの状況でした。

非常なブリザードはその後、「第二次越冬隊を昭和基地に送る」ことを結果的に阻んでしまいました。
西堀栄三郎たちと交代して、第二次越冬隊が基地に入ることができれば、犬たちだけ取り残されるということはありませんでした。

第二次越冬隊がすぐにタロ・ジロ達を使いたいという連絡があったので、第一次越冬隊の隊員が、樺太犬全員をくさりにつないでおいたということがあったということです。結果的には、また船に戻されてしまいましたが、第二次観測隊は一旦、昭和基地に入っているのです。

つまり、第二次越冬隊を残さずに宗谷が日本に戻ったという状況が、タロ・ジロたちの悲劇を生んだのです。

第一次越冬隊としてみれば、隊長として「隊員全員を生きて帰す」そして「日本の科学者の研究成果を持ち帰る」ということは重要な使命です。
西堀はその二つを達成しているのです。

経緯を注意深くたどると、命すらあぶない中で、南極の観測隊の隊員達は、子犬たちや鳥たちを連れて帰っているのです。

「南極越冬隊 タロジロの真実」という本の内容を紹介したサイトに経緯が細かくまとめられています。
長くなりますが、引用します。 ※下線はきゆなです

http://netabare1.com/1235.html

樺太犬のタロ・ジロを置き去りにする経緯
1957年(昭和32年)12月20日、第2次南極観測船「宗谷(そうや)は昭和基地から遙か北東の南極・エンダービーランド沖に到着し、南西に進路をとる。(時間は現地時間)

1957年12月26日、偵察に出たヘリコプターがビーバー機「昭和号」(DHC-2型)の離陸に利用できそうな海水面を発見。第2次南極観測船「宗谷」はビーバー機「昭和号」を飛ばすため、その海水面を目指す。

1957年12月31日、昭和基地の北方200km地点で、強烈なブリザードに襲われる。第2次南極観測船「宗谷」は氷に囲まれて、身動きが取れなくなり、氷と共に西へと流される

1958年(昭和33年)1月8日、接岸予定日。宗谷は身動きできないまま、西へ流され続ける。

1958年1月24日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測隊についての緊急会議を行い、今後の方針を検討する。

1958年1月31日、氷にと共に450kmほと西へと流された宗谷は、クック岬を超え昭和基地から遙か北西まで流されていた。南の風により、氷がゆるみ始めたため、宗谷は外洋へ向けて脱出を開始する。

1958年1月31日、南極地域観測統合推進本部は外務省を通じ、アメリカの砕氷艦「バートアイランド号」に救助を正式に要請。2月1日にバートアイランド号が要請を受諾する。

第2次南極観測隊の隊長・永田武はバートンアイランド号が救出に来る事を知らず、南極観測船「宗谷」の船長・松本満次と意見が対立する。

1958年(昭和33年)2月1日、宗谷は砕氷中に左舷プロペラの1翼4分3を欠き、砕氷能力の2割を失う。2月1日は指令書に記載された離岸予定日だった。

1958年2月6日午後1時30分、第2次南極観測船「宗谷」は自力で外洋に脱出する。しかし、自力での接岸は困難のため、「救助」から「接岸への救援」へ切り替え、バートアイランド号に対して再要請。バートアイランド号はこれを承諾。

1958年2月7日午後3時30分、昭和基地の北方約170km地点で、救援に駆けつけたアメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と会合。2月8日午前4時より昭和基地にへ向けて進行を開始する

1958年(昭和33年)2月8日午後6時、バートン・アイランド号も割ることができない厚い氷に遭遇し、2次南極観測隊は昭和基地から110km離れた地点で接岸となる。(第1次南極観測隊の時は昭和基地から20km地点で接岸した。)

1958年2月9日午後10時、第2次南極観測隊の隊長・永田武は、天気予報などから判断し、昭和基地にいる第1次越冬隊に対して、全員収容を通達する。

1958年2月10日午後3時45分、天候が回復してきたため、第2次南極観測隊はビーバー機「昭和号」による第1次越冬隊の収容を開始。ビーバー機「昭和号」は同日に3往復する。

このとき、第1次越冬隊は仕事の引継ぎなどの関係から、第1次越冬隊を全員収容する計画に異論を唱え、立見辰雄を交渉へ送る。しかし、立見辰雄からの連絡が無いため、第1次越冬隊員はビーバー機1便に1人乗りだけ乗り込んで宗谷へ移った。

1958年2月11日午前8時20分、第1次越冬隊の行動に頭を抱えた永田武はヘリで昭和基地へ飛び、第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎と会談し、2時間ほど昭和基地を視察。第1次越冬隊は説得に応じ、全員収容に従うことを決定する。

1958年2月11日にビーバー機「昭和号」が4往復し、2月11日午後6時5分に第1次越冬隊の収容作業を完了する。

第2次南極観測隊は、第1次越冬隊11名、樺太犬の子犬6頭、猫1匹(三毛猫のタケシ)、カナリヤ2羽を南極観測船「宗谷」に収容する一方で、計2トンの物資を昭和基地へ運び込んだ。(「南極1号・弁天さん」の行方については調査中である。)

1958年2月11日夜、第2次南極観測隊は南極観測船「宗谷」でオペレーション会議を開き、第2次越冬隊の規模を20名から9名へと縮小するとともに、輸送物資を460トンから6トンへと削減した(既に2トンを輸送しているので、残り4トンで越冬成立)。

1958年2月12日、ビーバー機「昭和号」は4往復し、第2次越冬隊3名(守田康太郎・丸山八郎・中村純二)および物資を昭和基地へ送る。

このとき、天候は悪く、既にバートン・アイランド号が氷を割って進入してきた水路も氷により、塞がれていた

1958年2月13日、バートン・アイランド号は、このままでは2隻とも氷に閉じ込められるとし、リュツォー・ホルム湾からの離脱を第2次南極観測船「宗谷」に通告し、離岸準備を始める。

当初バートンアイランド号は1958年2月16日までの停泊を約束しており、第2次南極観測隊は2月16日までの輸送計画を立てていた。

しかし、単独で外洋へ脱出できない宗谷に対して、バートンアイランド号の通告は事実上の命令であり、第2次南極観測隊は昭和基地へ送り込んだ第2次越冬隊員3名を収容し、外洋からの輸送計画へ切り替えざるを得なかった

1958年2月14日午後4時30分、第2次南極観測隊の操縦士・森松秀雄がビーバー機「昭和号」で、昭和基地に渡った第2次越冬隊員3名および第1次樺太犬のシロ子(メス犬)とシロ子が出産した子犬2匹を収容する

(シロ子を収容する詳細は「実話「南極物語」-森松秀雄の奇跡」をご覧ください。)

1958年2月14日午後6時20分、バートン・アイランド号に続き、宗谷が離岸する。

バートン・アイラインド号は砕氷作業中に、船首が氷山に突き刺さり、抜けなくなる。宗谷がワイヤーを付けてバートン・アイラインド号を引っ張るが、ワイヤーが切れる。バートン・アイラインド号は氷山を爆破して脱出。

一方、宗谷の氷陸に乗り上げてしまう。後退したときに、氷陸にぶつかり、推進シャフトが湾曲し、舵が左舷10度35分へ振れるなどして、満身創痍となる。

1958年2月17日、アメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と第2次南極観測船「宗谷」が外洋へ脱出する。宗谷は度重なる損傷により、帰国もままならぬほどの状態なっていた

宗谷はバートン・アイランド号に対して、引き続き救援を要請。バートン・アイランド号は「救助する義務は負わない」と条件付きながら、救援を承諾する。

気象データーから低気圧の襲来が予測されたため、宗谷は同水域から北上して、安全な水域で天候の回復を待つ。

1958年2月18日、第2次越冬隊の規模を7名に縮小するとともに、目的を「観測」から「昭和基地の維持」へと変更する。

1958年2月22日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測船「宗谷」に、「空輸に成功しない場合は2月24日に作業を打ち切る」と通達する。

1958年2月23日午後7時53分、第2次南極観測船「宗谷」は昭和基地から北方95kmの地点(リュツォー・ホルム湾の外洋)まで引き返し、ビーバー機「昭和号」による空輸を行うために待機するが、天候は回復しない。

1958年2月24日正午、第2次南極観測隊の隊長・永田武は越冬の断念を決定し、第2次南極観測船「宗谷」は帰路に就いた

樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を首輪につないだまま昭和基地に置き去りにした理由は、第2次越冬隊の隊長・村山雅美から「樺太犬を直ぐに使いたい」との要請があったためである。

以上 引用はここまで

 

私は西堀栄三郎が好きなままです。
気骨あるリーダーに足る人物だと思っています。

「タロ・ジロを置き去りにしたのが彼でなかったから」ではありません。

その決定を下したのは、わたしの予想では永田武です。
永田武こそ非難されるべき人物か?

そうは思えません。

日本として初めての南極越冬、そして、「宗谷」は新設された船ではありません。戦争でスクラップになるかという寸前、生き残った船をかろうじて南極仕様に改良した船です。

そういう環境と装備の中で、誰一人死なずに生きて帰ってきた。
そして今も南極観測は続いています。
もしもあそこで犠牲者が出ていたら、南極観測は途絶えていた可能性があるのです。

その功労者がおそらくは永田武でしょう。
もちろん、永田の判断には西堀栄三郎の言葉もきっと加わっていたことでしょう。

永田武は世界でも有名な物理学者でした。しかし単に世界で有名な物理学者だったということを超えた大きな人物の一人です。

いつか調べてみようと思っています。

こういうことを綴っている昨夜遅く、西堀榮三郎が「雪山讃歌」を作詞した場所に行ったという読者の方から写真が届きました。

次回紹介させていただきます。
① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

 

沖縄の教育に全力投球
たのしい教育研究所です

学ぶ力 は一生ものの力

保護者の方達からの要請で個人的に開催を決断した「子ども達対象の学び方コース」ですが、いろいろな方が関心を持っていただけているようです。

少人数だということ、小学校六年生のみということは、なぜかという声もありました。
一生ものの力を身につけてもらいたいということ、それから、中学受験レベルの子ども達を対象とするためです。

学び方の大きな基本は、書くと簡単です。
「予想を立ててたしかめる」ということです。

まず、いろいろな課題や問題に予想を立てる。
そして丁寧にそれをたしかめる。
その流れです。

それなら簡単だと思うもしれません。
もしもそれが簡単に身につくならすばらしいことです。

国語でも算数でも理科でも社会でも、全てその流れが大切です。

これは一生ものです。

何か新しい課題を前にした時、その流れで前に進んでいけるからです。

研究所では、それを一人ひとりに丁寧に指導しています。
この子たちの伸びがたのしみです。

スクリーンショット 2015-09-13 22.26.28

沖縄の実力ある子ども達の教育
たのしく豊かな子ども達の育成に
全力投球の「たのしい教育研究所」です。

 

 

学ぶ力/繋がる力

某月某日、子どもたちと授業していた時のことです。
たのしい教育研究所には知恵と工夫のゲームはたくさんあります。
その一つが「ソーマ・キューブ」、立体的な図形処理をたのしむゲームです。

大きくするとわかりよくなるかもしれないという予想があったので「巨大ソーマキューブ」を作成しました。
右が普通サイズのソーマ・キューブです。
スクリーンショット 2015-09-12 15.04.21「学び方コース(小学校6年生)」にテレビゲームがとても得意な子がいて、休憩時間にその話になりました。
しばらくはなしを聞いてあと、
「テレビゲームもたのしいと思うけど、実際に実物で挑戦する立体図形処理もたのしいかもしれないよ!」
と、その子に出来立ての、巨大ソーマキューブを渡しました。

もちろん、初めての人にそう簡単に組み立てられるわけではありません。

すると、それが得意な子が、
「これはこうするといいよ」「こっちはホラこんなかんじで」
という様にアドバイスして一緒に組み立てていました。初めての子は「あ、なるほど」と感心しています。

スクリーンショット 2015-09-12 13.44.22「学ぶ力」は、必ずしも自分自身で解決する、ということばかりではなく、周りの人達と繋がる力でもあるのだと思います。
そして、周りの人と解決することは、一人で解決することよりも、もっとたのしいことであったり、もっと大きな力を発揮することであったりします。

多くの子の中の一人としてではなく、世界にたった一人のその子を、賢く元気に育てる たのしい教育研究所です!

 

おすすめ絵本|ぼくのジィちゃん くすのき しげのり作/おすすめブックレビュー

今週のたのしい教育Cafeで、おおいに盛り上がった、読み語りのシーンです。

スクリーンショット 2015-09-11 22.36.51
前にも聞いたことがあるのですけど、何度聞いてもたのしい。
元気になる絵本です。

明日は運動会。
クラス一番走るのが
遅い僕は徒競走が
嫌で仕方ない。

そんな主人公とおじいちゃんのある日の物語です。
特に運動会のこの時期に子どもたちに読んであげたい快作です。

スクリーンショット 2015-09-11 22.29.30入手情報⇨ ぼくのジィちゃん

 走るのが苦手だという子にも得意だ、という子にも読んであげてほしいです。

くすのき しげのりさん
注目して損はない作者の一人です。

たのしい教育が元気のもと、たのしい教育研究所です!

たのしい教育全力疾走RIDE(たのしい教育研究所)、みなさんの応援が元気の源です。一緒にたのしく賢く明るい未来を育てましょう。このクリックで〈応援〉の一票が入ります!