前回の板倉聖宣先生(仮説実験授業研究会初代代表・元文科省教育研究所室長・元科学史学会会長)の講演の続き、メルマガ創刊第2号(2012年)で編集紹介した内容です。
教育は人間的行為である
板倉聖宣
人聞は、自分自身が自分自身の評価をする権限があると思うのです。自分が賢くなったかどうかということを、他人に評価してもらうのではなく、自分自身が評価する権限があります。
小学校低学年の子どもたちにとって〈字を覚える〉のは大変たのしいことです。算数ができるということは大変たのしいことです。自分たちがそういうことを勉強したことによって、たくさんの問題が解けるということを知っています。
看板の字が読めたり、あるいは新聞に書いてあるいくつかの漢字が読めたり、自分たちの絵本が読めたりする。そうして「自分が賢くなったんだ」という判定を下すことができます。
こういうふうに、多くの問題は判定を下せると思うんです。もちろん全ての問題に判定を下せるかどうかは私もここで断言することはできません。ものによっては、自分がこういう勉強をしていったい役に立つのかどうかもわからない、わからないけれども先生から見れば「それは勉強すれば役に立つよ」ということもないわけではありません。
でもそれは今日の教育が効果的でないためにそういうことがおこるんだと私は考えています。しかし基本的には、教育がもう少しまともになれば子どもたち自身、教育を受ける者自身が〈その教育のよしあしを判定することができるようになる〉、そしてそれを一つの大前提として研究を進めることができるんではないかと私は思います。
「子どもたちがたのしく実力がつく」ということの他にもう一つ、教育の研究、授業の研究で重要なのはその教育が先生方にとって「楽にできる」ことです。
「授業が楽にできる」ということは、どうも奉呈ほうてい思想の影響でたいへん悪いことのようにとらえられたりいたします。「教職は聖職である」ということに大反対する組合の幹部なども「楽に授業ができるということはよくないんじゃないか」なんていったりします。
楽にできることは罪悪である、苦しまなければ人間の価値がないというのが日本人的発想であるように思います。
しかし私たちは「楽に授業ができるということが根本的な原理であること」を出発点として研究を進めたい。楽に授業ができて、子どもたちが喜び、子どもたちの実力がつくーーとれが私たちの授業研究の大前提でございます。
だから私たちは、授業研究をしてAの授業法、あるいは授業内容とBの授業法、あるいは授業内容のどちらがよいかということを決めるときには、その2つの授業をやってみて「先生がどちらが楽か、たのしいか」そして「子どもたちがどちらがたのしいか」「どちらが頭がよくなったと思うか」の3つを聞いて判定することにしています。
ごの判定の基準は、きわめて主観的なものです。私は、「主観的であるからこそこれは客観的なんだ」と主張します。
教育は人間的な行為です、「人間」が問題なんです。
ペーパーテストで何点とれたかというのは、これは教育の問題ではありません、その人間自身がどれだけかしこくなったか、どれだけたのしいか、教える人間も教わる人間もどれだけたのしいかということが、その主観を通して表現されたときにはじめて教育の評価ができるんだと私は思っております。
板倉聖宣先生のものの見方・考え方に興味をもった方は、まとまった一冊を読むことをおすすめします。
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