一部の人だけが学んでいるだけのものなら役に立つ/学力論②

前回の板倉聖宣の学力論の反響が届いています。
板倉聖宣の発想は科学史に裏付けられた迫力があります。
板倉聖宣は、理論・哲学だけでなく、じっさいにたのしい授業を保証する教材をいくつも開発しています。
興味のある方は、ぜひインターネットで著作物を入手して読んでみてください。
どれも読み応えがあると思います。

何か一冊、ということなら理論と実践が重なった一冊、この本をお勧めします。
わたしも時々利用しています。

61YEXXXV2lL._SX371_BO1,204,203,200_吹き矢で科学―ものを動かす力 (いたずら博士の科学だいすき1)

 さて、反響に答えて前回の講演の中で板倉が語っていることを切り抜いてみます。
30年近く「たのしい教育」に関する資料を集めてきていますが、その中のペーパーに残されていたものです。そのペーパーを読みながら文字化しています。読みやすく最小限で手を加えています。文責はわたし喜友名にあります。

学校で教えるいろんな知識がありますね。
いろんな知識はあるけど、それはほとんど役立っていません。

 

江戸時代の知識は身分社会の上に立つための知識でありました。
そして明治以後、上級学校に行っている人たちもすごく勉強しました。

哲学も勉強しました。
哲学なんかすぐに役立たないけども、万物の根本を明らかにすることはすごくロマンチックなことだからです。

 

その時代の人は、なぜ勉強したのか?
上級学校に行った人たちは出世の当てがあったのですね。そして実際、明らかに出世しました。

 

ここには小・中・高と、いろんな段階の学校の先生がいるでしょうけども、明治時代だったら、同年輩でも中学校の先生は小学校の先生の2倍近い給料でした。

高等学校の先生であれば4倍近い給料でした。
そうであれば、少しは勉強したくなるでしょう。
やりたくなくてもやるでしょう。

 

明治の時代には「勉強をするな!」と言っても、勉強をする子どもはたくさんいたのです。

 

渡辺敏はあとで「明治の初めにはみんなが勉強して困った」と自己批判しています。
「勉強するなと言うことが大事だ」と言うのですが、勉強をしすぎて結核で死ぬ子どもがたくさんいたのです。だから学校の先生の仕事は勉強を教えることと同時に、「あまり勉強し過ぎるな!」と言わなければいけなかったのです。
今そういうことを言っている人はほとんどいませんね。
江戸時代から明治になった時は出世競争が激しくて、そのチャンスのある人たちは時間を惜しんで勉強しました。

自分にはよく分らなくても、いろんな知識を覚えたのです。

 

例えば英語の出来る人がほんの少ししかいなければ、その英語の能力は確実に役立ちます。

 

ローマ字が読める人がいれば、例えば塩尻という駅前に、SIOJIRIとローマ字を書くことができます。すると「あの人は中学校を出ているから塩尻という英語が書けるだろう」と言うことになる・・・その知識は使えたのです。

 

つまり、ごく一部の人だけが学んでいる時には、その知識は役立ちます。
だから、勉強しても無駄にならなかったのです。

 

みなさんは英語をずいぶん勉強しているし、第2外国語のドイツ語とか、フランス語とか、中国語を勉強しているけれども、その後ほとんど使ったことはないでしょう。

 

昔の大学の卒業生は2ヶ国語を確実に使えました。会社に入っても、今までイギリスとだけ取引をしていたけど、今度フランスと取引をやらなければならないという時には、フランス語の出来るのは大学出に決まっていたのです。
だから、大学を出てなくても、フランス語を勉強するという人たちがいたりしたのです。

 

ごく一部の人たちだけが勉強をしている時には、その知識は役立つのです。
しかし今や、全ての人が勉強するようになってしまいました。
ですから自分の学力を期待してくれる人が誰もいない。

 

時々社会問題に理科的な話があると、理科の先生はその理科の知識を聞かれることがあります。
例えば、白装束の集団が現れた時に、「電磁波って何だ?」と聞かれたりします。
本当は「電磁波は何だ?」というのは、理科以外の学校の先生もみんな教わっているはずなのだけど、みんな身についていない。
だから、理科の先生だけが電磁波について知っていることになっていて、そして理科の先生も、その電磁波についての知識は怪しかったりしますね。   続く

 

板倉聖宣の話は、ここで語られたような〈一部の人たちだけの知識・優等生的な学習〉が成り立たないからだめなのだ、という結論でありません。
「本質的な学習とはなにか」という話にすすんでいきます。
これについては日を改めて紹介させていただきます。

 

たのしい教育/たのしい教師を育てる教員採用試験特訓
に全力をあげている「たのしい教育研究所」です

学力低下論/板倉聖宣2003

先日、某大学の学生さん5人が、「大学の授業で発表したい」ということで、わたしにインタビューを申し込んできました。
隙間のない状況でしたけど、なんとか調整して語りあってきました。

インタビューといっても、一方的に質問に答えるだけでなく、こちらから「コップを逆さまにして水槽の中にいれると中に水が入っていくと思いますか?」という様に、質問や問題を投げかけたりしたので、1時間くらいの予定がけっこう時間がかかりました。

最後の質問が
「私たち若者に何か伝えたいことがありませんか?」でした。
その時に、わたしの授業プラン「近頃のわかものは」の内容になりました。

「近頃の若者はとてもよい」という内容です。
興味のある方は、わたしのプランを手にしてください。
「ものづくり工房」さんが実費でお分けしています。
連絡は、研究所のアドレスでOKです。
⇨ office⭐︎tanoken.com  ⭐︎を@へ

今回は「近頃の若者の学力」に関連して、紹介させていただきます。

 たのしい教育研究所の応援団の皆さん向けのメールマガジンを毎週発行していますが、その中の「たのしい教育の哲学・発想法」のコーナーに取り上げた内容です。

 中身は、板倉聖宣(元文部科学省 教育政策研究所室長)が十年程前に長野県塩尻市で講演した「子どもにつけたい本当の学力」という話からです。
 文意が変わらない程度に少しだけ読みやすく手を入れさせていただきました。

 最近は〈学力低下〉と言うことが、かなり顕著に言われるようになっています。この講演を依頼された頃には、とくにそうだったと思います。「学力低下」と言った時に、「そうだ ! そうだ !」と言う人もいるでしょうし、「いや、学力低下などと、とんでもない!」という感情をお持ちの方もあろうかと思います。

 文部省でさえ今は意見が一致していないのですから、ここでも意見が一致しないことが望ましいことではないかと思います。
 私の考えを結論的に強く言ってしまうと、
「学力というのは年がら年中低下するに決まっているのだ」、「学力は低下するのに決まっているのに、ことさら〈学力低下〉などと言うのは何か魂胆があるに違いない」
と言うことでございます。

 例えば、私の詳しく研究した人に長岡半太郎という人がいます。この人は湯川さん、朝永さんの先生に当たる人ですが、日本の物理学の伝統を確立した人です。
 明治20年に東京帝国大学を卒業した人でありますから、幕末に生まれて、そして親父さんは大村藩士という肩書きで、明治の初めに元藩主にくっついて海外旅行をして、その親父さんが帰って来てすぐに息子の半太郎の前に座って、
「これまでの教育は間違っていた。これからはこれでなければいかん」
と、海外から持ち帰った外国の教科書を示して、
「これからは、これで勉強しろ」
と言われたというほど、明治の初めに恵まれた状況で新しい科学を勉強した人であります。

 その長岡半太郎さんの時代、東大の授業は英語です。教科書も英語だし、教師の大部分は外国人です。だから英語はペラペラしゃべれたりもしました。
 明治の初めには抜群の学力があったことになります。
 しかし、その長岡さんでさえ「学力が低下した」と、みんなから言われたのです。

 なぜか?

 江戸時代の人からすると、手紙は筆で候文で書きます。それが書けないというのです。
 そりゃそうですね。
 英語での対話が十分出来るように勉強したのですから、普通の手紙でも危ないかもしれないのに、候文で、しかも筆で書くなんてことは出来なくて当然です。
 もし、そんなことが出来たとしたら、英語の勉強は疎かになっていたかもしれないし、物理学の勉強も怪しいかもしれない。
 だから〈新しい時代には、新しい学力がある〉ということになります。

 ところが年のいった人たちは新しい学力なんて考えないで、自分たちの知っている知識を、今の若者たちの知識の量と比べて、「今の若者たちはこんなことも知らない」とか、「あんなことも知らない」とか言っているのです。

 とくに最近などは漢字のことで、
「こんな漢字の諺も知らない。あんな諺も知らない」
と言っていますが、あれは大変極端な例を出して、おそらくは皆さんも知らないような言葉をあげて「あれも知らない」と言うように、若者たちは攻撃されているのです。

 すごく古いセンスで古い時代を守ろうとしているのです。

 しかし、「古い時代を守ろう」と言うのでなくて、「新しい時代を切り開く」としたら、古い時代のくだらない知識は「知らない」と言うことが勲章であります。
 若者たちは、そういう年配者たちに特別に反撃はしませんけども、事実として明らかになったのは、「今の若者たちはこんなことも知らない。あんなことも知らない」という人たちは、おそらくパソコンは使えないのです。
 そして携帯電話も持っていないのです。
 そういう文化は自分たちのものになっていないのです。
 新しい時代にはついていけないのですね。

 

いかがでしょうか。
いろいろな意見があるかもしれませんが、こういう考え方もしっていてよいのではないかと思い、紹介させていただきました。
若者よ、くじけるな!
という気持ちと、物理的な年齢ではなく気持ちの面ではわたしも十二分に若者だけどね、という気持ちでつづらせていただきました。

  たのしい教育活動に全力投球の
「たのしい教育研究所」です

川口淳一郎さんと/はやぶさの魅力を伝える本

たのしい教育研究所を設立した年2012年、沖縄県からの依頼で、川口淳一郎さんとご一緒させていただきました。
惑星探査機ハヤブサを成功させた偉大なる人物です。

この写真は川口淳一郎さんと二人でのトークの様子です。
私がなげる質問に対して、とてもシャープに答えていた姿が思い起こされます。
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私が師匠と呼んでいる、宇宙教育の第一人者 的川泰宣先生も沖縄が大好きです。
川口淳一郎さんと的川先生を結びつける一冊があります。

的川泰宣 「はやぶさ物語」 生活人新書  799円
index小惑星探査機 はやぶさ物語 (生活人新書 330)

 「はやぶさ」という実験の凄さが伝わってくる本です。

沖縄は海が有名ですけど、宇宙への夢も育ちやすい環境です。
この夏、宇宙への夢を携えて、この一冊を読んでみませんか。
小学校高学年から読めると思います。
おすすめいたします。

たのしい教育
たのしい宇宙教育
に全力投球の「たのしい教育研究所」です

キャリア教育と手乗りブーメラン!/知恵と工夫

ブーメランは大好きで、時間があると飛ばしています。
100パーセント手元に戻ってくるブーメラン、というのは一見難しそうに思えるかもしれませんけど、実は難しくありません。

ブーメランをどういう講座で実施しているかというと、これがなんでもありなのです。
たとえば下の写真。
左側の垂れ幕に
「いっきゅうハカセの たのしいグッジョブ講座」
とあります。

キャリア教育/グッジョブ の中で取り上げているのです。スクリーンショット 2015-07-21 22.21.36
子ども達が自分の夢の翼を広げる時に必要なものは、熱意と力です。
「熱意」は、それをたのしむことであったり、好きで好きでたまらないことであったり、そういう情意的なものです。
「力」は、たとえば創造することであったり、工夫することであったりします。
ブーメランを取り上げると、そこには知恵と工夫がたくさん詰まっているのです。
しかもたのしい!

まさにキャリア教育にうってつけです。

たのしい教育研究所に講座を依頼すると、どういう内容になるのだろう、と考える人達もきっといるとおもいます。
しかしご心配なく、ほぼ全員に「たのしかった/学んでよかった」と、喜んでもらっています。

この講座の時には100人以上集まってきてくれたのですけど、その中のある子から
「あれからたくさんのブーメランを作りました。
いっきゅうハカセほどではないかもしれませんけど、
とてもたくさん飛ばしているほうだとおもいます」

という嬉しいメールが届きました。

 知恵と工夫をたのしみながら自分の力を高めていく。
そういう子ども達をたくさん育てたいと思っています。

たのしい教育が沖縄を変える!応援してくださる方が一人でも増えてくることをたのしみにしています。

そう書いた時、「どんな応援がありますか?」というメールが届きました。
「たのしい教育研究所の授業や講演・講座、とてもいいらしいよ」と周りの人に伝えてくださるだけでも、大きな応援です。
みなさんの応援を支えにがんばっています。

知恵と工夫のたのしい教育研究所です。