板倉聖宣の発想法入門「基本的見解の相違はおしつけてはいけない」

わたしが発行している有料メールマガジンに板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表・日本科学史学会会長・元文部科学省教育政策研究所室長)の発想法を毎回取り上げています。
話の展開が実に新鮮で、毎回取り上げても話題が尽きません。
それは書いている私だけの感想ではなく、読者の方達からの評価に裏付けられたものです。

最新号の一部を載せてみます。
これまでいろいろな研究会やサークルでわたしが入手したプリント資料を元に打ち直して、読みやすい様に構成したものです。30年にもわたって収集してきたものなので、もう紙がボロボロになって、しまっているものをPDFに取り、それを見ながら打ち直し、まとまりをみつけてタイトルを付け、必要に応じて注釈を入れたりしています。すべて文責は喜友名にあります。

 

——— 基本的見解の相違は押し付けてはいけない ———-

〈美しいものが花だ〉と言ったり、〈職場の花〉と言う人がいた時、「いや、それは間違っている。〈花は生殖器官である〉というふうに捉えなかったら間違っている」と言いあってしまうことがありますが、これは〈見解の相違〉なんです。

「花」という言葉をどういうふうに定義するかというと、昔から日本語の「花」という言葉は〈生殖器官〉ではありません。あれはおそらく、植物の端っこのほうにあるから「ハナ」なんです。
それは美しくもある。
「ハナにあって、美しいものが花だ」と。
だから「ケイトウ花」は花なんです。

板倉聖宣の発想法「花」
きゆな注

ケイトウ(左)
花に見えている部分は植物学的な「花」ではなく茎の上部が変化して色づいたもの。

 

 

これは日本古来の言葉使いだから、「それは間違っている」なんて言う自由は、植物学者にはありません。

ただこの〈①美しいものとしての花〉の概念と、〈②生殖器官としての花〉の概念との両方を定義したとき、植物学者は「②のほうが展望がきくから〈花〉をこのように定義しています」ということなのです。

①のように「職場の花」とか「鶏頭の花」と言ってもいいというふうになるわけですが、〈花と実〉という授業書は科学上の花の概念を教える授業書でもあるのですから、それで子どもたちは納得していきます。
ところが、ちゃんとした順番をふまずに
「美しいものを花と言ってはいけない、それは間違いだ。花というのは植物の生殖器官なんだ」
というふうに言ったら、これは押しつけになります。

「花」というのは①のような定義もあれば、②という定義もあるということなのです。

昔は①の定義だった。今もある人たちは①だと言う。
だから〈どんな定義をしたって自由じゃないか〉と言う考え方があるけれど、私はそこまでは考えない。
同じ人が両方の定義を知ったとしたなら、「この場合はこちらの方が一番いい」というような定義があるんです。

そうすると、場合によっては使い分けをして、この場合には「職場の花」という言葉を使おう、という使い方があるのです。花という言葉の概念をそうやって使っていくわけです。

「実験」というものの定義もそうです。

仮説実験授業をやると本当にあきれるぐらいに、生徒実験をたくさんやっていた子どもたちが「これまでは実験が全然なかったが、仮説実験授業をやると実験があって楽しい」と言う様になります。
ところがそのときに先生が、「今まで諸君がやっていたあんな実験は実験ではない。予想を立でなければ実験とは言えない。手で動かしたからといって実験とは言えないのだ」というふうに訴えたりすることがあると、訴えた途端に、子どもから反発を食らいます。
だけど、そんなこと言わないでやれば、「今まで実験がなかったが…」ということを普通に書いてくれるんです。

選択の自由は子どもたちにあるのです。

                                  つづく

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沖縄のたのしい教育を支えた巨人「板倉聖宣」からの伝言 ②

未読の方は
たのしい教育者列伝 沖縄のたのしい教育を支えた巨人「板倉聖宣」①
からお読みください⇨ その1へ

 30年前に伊良波さんと一緒に板倉先生を沖縄に招聘してから、沖縄の「たのしい教育」の足取りは、着実に一歩ずつすすんでいきました。

そして今、その確かな成果として、沖縄に「たのしい教育研究所」があります。全国からたくさんの問い合わせがありますが、それはつまり、日本全体から見てもあまり類を見ない、新しい形としてしっかり立って歩いているからだからだと思います。

板倉先生が沖縄に来てくれた何十回という全て、わたしはそばでいろいろな話を聞く事ができました。わたしの車で空港への迎えから見送りまでお世話していましたから、車の中で話していただいた時間だけとっても大量の時間になります。
加えて、食事の時も、フリータイムで古本屋に行きたいという時なども一緒でしたから、どれだけたくさんの話を聞かせていただき、わたしの質問に答えてもらったことか…。
〈仮説実験授業の極意〉〈自由とは〉〈争いとは〉〈未来の教育〉〈ギリシャ時代のものの見方・考え方〉〈哲学とは〉〈科学とは〉という様なテーマに加えて、〈新しく構想している授業書の話〉や〈最近発見したものごと〉〈人間関係論〉〈心理学〉と様々なジャンルに深く切り込んだ話を聞かせてもらいました。

加えて〈エイズの今後〉〈リチャード・ファインマン〉〈ガリレオの実験〉〈アドラー心理学〉〈潮の満ち引き〉〈沖縄の砂と砂鉄〉〈仮説実験授業の選択肢の作り方〉という様なピンポイントの質問にもたくさんのお話を聞かせてもらいましたから、まさにわたしの財産です。
板倉先生は毎回とても元気でしたし、何か仕事をしながら片手間に答えるのではなく、のめり込む様にして答えてくれましたから、それらを文字起こししただけで本にして何十冊にもなると思います。

それらも機が熟したら紹介できると思います。

そうやって、いろいろな事を学ばせてもらいながら、いよいよ「たのしい教育研究所」を設立することになった際、巨人 板倉聖宣が わたしに贈ってくれたメッセージがあります。

前回紹介した
〈沖縄のたのしい教育 正伝〉「ねてもさめても… 夢がもりもり」⇨こちら
の中に、その板倉聖宣先生からの伝言が入っています。仲間たちが、わたしには内緒で、板倉先生の元に行き直に書いてもらった文章です。
紹介させていただきます。

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きゆなさんへ

たのしい教育研究所の設立、おめでとうございます。
いろいろな困難に出会うことと思いますが、仕方のないことです。
そんなとき「グチをこぼしてばかりいる」ということなく、明るく未来を目指して冷静に対処し、柔軟に対処していけば、すばらしいと思います。
いまは、あまりがんばりすぎずに、着実に一歩二歩を踏み出されるように願っています。

板倉聖宣

巨人 板倉聖宣からの伝言は、たのしい教育研究所を設立して4年経った今年、やっと冷静に読む事ができる気がしています。

仮説実験授業を生み出す源となった板倉聖宣の科学史学をわたしも熱心に学びました。そこから学びとった一つに〈本質的な改革は大きな困難に出会っている〉という法則的な事実があります。

幸い、たのしい教育研究所は、設立まで30年近くの歴史を経てゆっくり着実に形作られてきました。これまでも対面した困難は、伊良波さんをはじめとして大切な仲間たちと克服できました。つまり困難は全て対処可能なものでした。

そしておそらくわたしの口からグチらしいグチを聞いた人はいないと思います。

たのしい教育研究所は、明るく未来を目指して、今この時も歩んでいます。

教育界の巨人 板倉聖宣が沖縄に残したDNAを受け継ぎ、たのしい教育活動としてますます発展させるのが、これからの活動の指針です。

「ねてもさめても 夢がもりもり」
わたしをとてもよく知っている仲間たちだからこそ冠したその題の通り、ますます確かなものとしてたのしく元気に二歩三歩と歩いていきます。

いっきゅう

予想を立てる重要さについて|予想論|板倉聖宣

「予想論|全ての科学は古代ギリシャに通ず」に対する問い合わせが続いています。

わたしの メールマガジン で詳しく紹介したと書きましたが、その中から少しピックアップしてみましょう。

「予想論」を読みながら、わたしがマーカーをつけた部分を書きぬいたものです。

まず「どうして予想することが重要なのか」という部分についてです。

私きゆなが、文意を変えない範囲で、読みやすく、少しだけ〈まとめ符〉他、手を加えてあります

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◯ほとんどすべての人々は、自分自身で、いろいろな経験を思いつくままに生かして予想を立てているだけなのである。これでは,私達の予想の立て方は、なかなか合理的なものとはならない。どうしても予想の立てかたを系統的にまとめて考えておくことが必要なのである。

◯「幽霊の正体見たり枯尾花」というのは,枯尾花がユラユラ動いて月光か何かで気味悪そうに見えたのを,直ちに幽霊にしてしまうような,対象と自分の両方に誤りに陥る要素があるのを戒めているのであろう。(それは)予想を立てる以前のごく基礎的で常識的な注意にすぎないが,少なくとも重要な判断をするような場合,これだけの注意をはらって,いつもすっきりした事実をもとに判断するように意識的に努力し、あやふやな事実は十分検討するようにしたら,どんなに見通しのあやまりを少なくするか知れない

◯デマ宣伝はこういう間隙をぬって入ってくる。デマというのは意識的に本当をよそおってなされるものであるから,余程注意しないとワナにひっかかってしまう。予想を立てるとき一番大切なのはこういうワナにひっかからないことなのである

板倉聖宣(仮説実験授業研究会代表/日本科学史学会の会長)
「科学と方法」季節社 より

「信長と秀吉と家康、誰がエライのか? そのどこがエライのか?」 板倉聖宣語る

たのしい教育研究所を応援してくれている方たちに向けてメールマガジンを書いています。

その「たのしい教育の発想法」に、仮説実験授業研究会代表、そして日本科学史学会会長 板倉聖宣が語った「信長と秀吉と家康の誰がエライのか? そのどういうところがエライのか?」という話をまとめています。

ここに少し掲載します。

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 たとえば戦国時代の末期に、信長がいて秀吉がいて、さらに家康がいて、そういう人の伝記はたくさん書かれているんだけど、何が一番素晴らしいのか?
 そういう英雄伝は書かれたけれど、「本当の歴史は書かれてないんじゃないか」という感じがしてしょうがない。

 最後の家康は、戦国時代を終わらせて、平和の時代をつくった。そういうことができたのは、家康がエライのか? 誰がエライのか?

 一番エライのは、家康が周りの意見を聞いたことです。
「お金を統一した方がいい」と平野郷の人たちが言って「銀座」をつくった。

 日本の「銀座」は東京にあると思っているかもしれないけれど、銀座の最初は平野郷なんです。

 その人達が進言したから、家康は「それもそうだな」と受け入れた。

 進言する人が居ないと、なかなか受け入れられない。そういうことを進言するチャンスを権力者はつくって、そう言うときに言うことを聞く。

 すぐれた政治家というのは周りの人たちの意見を聞く。

 それが民主主義なのね。

 多数決で決めるとかいうことでなくて、周りの人達の意見をたえず聞いて、そして自分たちの知恵を新たにすればいい。家康の周りの人達の知恵の出し方、そういう物語をつくりたいと思っています。

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たのしい教育は単なる技法ではなく
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