言葉の力:〈まあ〉という副詞を耳にするたびに感じること/「私たちは 言葉で できている」

「あなたは あなたが使っている言葉で できている」という本があります、私たちは物質なので、言葉としての振動や表記で出来上がっているわけではないのですけど、〈比喩表現〉としてはよく理解できます。その文脈でなら〈人間は言葉でてきている〉とシンプルに言ってもよいと思います。

 私がほんのわずかに見る番組の一つが『ポツンと一軒家』です。その中では、プロデューサーさんが行き先の地図や写真を地元の方に見せて、そこへのアプローチを尋ねるところから始まります。

未見の方へ、お勧めですよ! 朝日テレビ系です。

 すると地元の人がとても丁寧に教えてくれたり、先導してくれたり、「自分はわからないなぁ、向こうの◯◯さんのところに一緒に行ってみましょう」と提案したりします。

 そういう言葉の一つひとつから優しい人柄が伝わってきて、みていていい気持ちになります。

 以前、不案内な場所で開催される会議に参加するために車を走らせている時のこと、ナビが指す駐車場の案内が妙な案内をして役立にたたず、歩いてい方を見つけて車の中から「先の方に駐車場はありますか?」と尋ねたことがありました。
 こちらが急いでいる様子を察したのでしょう『そこ曲がってすぐのところ!』とサッと指差してくれた方がいました。
 一見、怒っているかのような語調だったのですけど、行き先が瞬時にわかってとても助かりました。こちらが迷って一刻も早く着きたいことを察してくれたのだと思います。深々頭をさげつつお礼をいい、遅れることなく参加することができました。

 普段の仕事や生活もきっと、キリリとしている方なのでしょう。

 手相占いや星占い、タロットカード、誕生日占い etc.  最近は〈電話占い〉というのもあるようです。

 たとえば占い師たちは実に怪しい儀式で「あなたは仕事に没頭すると、うっかり約束などを後回しにしてしまうことがありますね」などと誰にでも当てはまる言葉を使って人物判定することがあります。
 私は約束を破る・すっぽかすということがとても嫌いなので、ほとんどそういうことは無いのですけど、それでも「あるかないか」といわれたら「後回しにすることはありません」と言い切ることはできません、誰でも「はい」と答えるでしょう。

 ドーキンス、板倉聖宣などの原子論者(本物の科学者)たちが、そのまやかしをいろいろなところで暴いてくれている上に、私もこのサイトで何度か〈占いの非科学性〉や〈幽霊なんていない〉ことを書いてきました。
 詐欺・特殊詐欺などにあわないように、占いに惑わされないことから始めるのもよいとおもいます。国民生活センターが注意喚起しているものがあるので目を通してみるとよいでしょう⇨ https://www.kokusen.go.jp/pdf/n-20201126_1.pdf

 占う人もきっとその人との対話から「こういう人物だな」と予想しつつ、例えば〈星座〉などに強引に辻褄を合わせて語っているのでしょうけれど、「どういう人物か」という時に『その人が使う言葉で推測する』ほうが、その占い師の占いより何億倍も確かです。

 最近インタビューを見ていて「まあ」という副詞を挟む人をよく目にします。
たとえば
「どういう方面に力を入れていきたいですか?」
「予算面の調整に まぁ 力を入れていきたいです!」
というような言い方をみなさんも聞いたことがあると思います。

 私が面接などでたくさんの人たちを合格に導いた一つが《弱め言葉》を使わない指導です、「まあ」や「まぁ」も弱め言葉の一つです。

 恋人同士の会話でみるとわかりやすいかもしれません。

女性に「私のこと好きなの?」
と聞かれて、男性が
「好きです!」
と答えた時と
「まぁ、好きです」
と答えた時には大きな違いがあります。

 私の友人がそう言われたとしたら「そんな頼りない人と結婚するのはやめてた方がよいんじゃない?」と伝えます。

「まあ」や「まぁ」は〈はっきりとは言えないけれど、とりあえず〉という言葉です。

 日本語大辞典にこうあります。

[1] 〘副〙
① 他のことも考えられるが、とりあえずそうしようという気持を込めて、ある行為をさし示す語。何はともあれ。まず。また、あきらめたり、なだめたりする気持を込めて、感動詞的に用いる。
ちなみに
「まあまあ」は「まあ」と同類の言葉です。
好きな「新明解国語辞典」から引用してみましょう。
 
 私たちが行政を託している政府要職の中にも、フレーズの中に必ず〈まあ〉を細かく連発する人たちがいます。
「災害に対する取り組みは急務だと思いますが、どのようにお考えですか」
「確かにその面についても まあ がんばっていきたいと考えています」
 きっぱり言い切るのではなく「まぁとりあえずはそう考えていますよ」という意図が伝わってきて、はなはだ心もとなく感じてしまいます。
 大切なことはしっかり考えてハッキリ言い切る、そういう使い方ができる子どもたちを育てていきましょう。

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願いは叶うのか?/たのしい教育の発想法

 除夜の鐘が響いている頃、寒い夜の庭に出て〈たの研/たのしい教育研究所〉に一年間掲げられていた『今年の願い』の大きな紙を燃やすのが毎年の儀式です。〈たの研/たのしい教育研究所〉の願いの紙は成就率80%という驚くべき数値をマークしています。

 こうやって炎が立ち上がり、みんなが言葉を刻んだ紙を構成していた炭素(C)、水素(H)、酸素(O)などが空にのぼっていきます。

 無機物、主に金属類(ミネラル)が灰として残るので、それは土に混ぜて植物たちに還元します。

 たくさんの人たちが願いを刻んだ物質が地球上を巡ります。
 このひと時はいつもたのしくて、大切な儀式です。

 今回は願いのどのくらいが叶ったのだろう、全て叶っていたらよいなと心から思います。

 ちなみに私の願いのカードは〈アウトドアをたのしむ〉でした、一年の願いとしては妙なのだけれど、2023に入った頃はきっと自然から遠ざかっていたのでしょう。

 もちろん120%達成しています。

 そして新しい年に刻む願いはすでに決まっています。

「願いは叶うのか?」

 願いは叶うのではなく〈叶える〉のです。

「ある日たまたま飛び込んできた莫大な遺産で幸せになった」というような偶然性の幸せもあるでしょう。

 けれど、もしそれを願って待っているとしたら、はなはだ心配です。

 自分の可能性を高めて自分の力で叶えるのが願いです。

 そして願いは一気に叶うものではありません、一歩ずつ一つずつ叶えていくものです、一つ叶えたら、また一つ叶える、そうやってさらに可能性が高まっていきます。

 願いは一つひとつ叶えるものだとはいっても、叶える方法は一つではありません、いくらでもあります。

 私が教師の頃、子ども達に伝えていたのが「ほんとうの夢は夢のままでは終わらない」という言葉です。

 まず自分がほんとうに叶えたいものは何か?

 それに気づいたら大きな一歩です。

 たのしい教育研究所は教育に関わることだけでなくカウンセリングもあります。私いっきゅう以外にもカウンセラーがいます。みなさんの願いを叶える手伝いができたら幸いです。

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「楽しさだけを強調してはいけない」という意見にどう答えますか?/メルマガで反響の大きかった記事から

みなさんはこの疑問に何と答えるでしょう?
「〈たのしい、たのしい〉というけれど、エジソンだって1%の霊感と99%の汗を流して研究したといいます。いろいろ話を聞くと〈創造性〉というものがあった人でも非常に汗をかき苦しんでいるのですから〈たのしさだけ〉を主張してはいけないのではないか」
 たのしさだけでなく、耐え忍んで、がんばって勉強することも大切である、というわけです。

 「楽しさだけを強調してはいけない」という意見にどう答えますか?

 このことを正面から否定できる人はほとんどいない気がいます。
 どうでしょう、みなさんならどう答えるでしょう、少し考えてみませんか。

あなたの考え⬇︎

 板倉聖宣(仮説実験授業研究会初代代表・日本科学史学会 元会長)が「板倉式発想法講座1994.05.06」でこういう話をしてくれています。
 要旨の部分を書き抜きましょう。

板倉

 4月22日(1994)に国立教育研究所で「授業はたのしいだけでいいか」というテーマで所内講演会がありました。

 私が想像した以上に、たのしい授業に対する批判は出ませんでしたが、普通ではあまり聞かない質問や意見が2~3ありました。
 その一つが「〈たのしい、たのしい〉というけれど、エジソンだって1%の霊感と99%の汗を流して研究したではないか。いろいろ話を聞くと〈創造牲〉というものがあった人でも非常に汗をかき苦しんでいるのだから、たのしさだけを主張してはいけないのではないか」という意見でした。
 これまで学校の先生に「たのしい授業」の話をすると、不思議なことにこういった議論は全然出なかったんですね。
 こういった意見は「やっぱり耐え忍ぶ能力が必要なんだ」ということなんでしょう。

 でもこの意見には簡単に答えられるんです。
 エジソンは〈楽しいから汗をかいた〉んです。
 イヤだからやったんじゃないです、自分の霊感が閃いて成功するに決まってると思ったから汗をかいたんです。
 成功しないだろうと思いながら耐え忍んでがんばったんじゃないんです。

 私が仮説実験授業を始めるときに掲げた大きなスローガンは〈先生方ををできるだけ楽にさせて成果をあげる〉ということでした。
〈先生方の労働時間を滅らして、できるだ楽に授業ができるようにしてあげよう〉と考えたのです。

 ところが仮説実験授業を始めたとたんに勤勉になってしまいました。
 それでわたしは「勤勉になったら勤勉であってもいいんですよ。何も勤勉にならないのが大事なのではなく、勤勉になりたくなってしまったら勤勉になればいいんです。勤勉さを恥じらう必要はありません」という文章を書いたことがありました。

 普通は勤勉にやったって成果があがらないということがわかってるから、いや成果があがったという感じがしないからやらないんです。
 ところが勤勉な人はみんな成果が見えてしまう、成果が見えちゃうと勤勉にならざるを得ない。

 勤勉になるためには〈たのしさ〉がなかったらむりなんです。
 たのしくなって勤勉になる、そして成果が見える。
 イヤな気持ちでがんばったってできません。
 いや、そもそもがんばれないんです。
 勤勉というものは努力するものではなくて、結果が見えるから努力をしたくなってしまうものなのです。

 その点、日本の教育は明治以来ずっとまちがっていました。

「たのしいからやるのだ。結果が見えるからするのだ」ということがわからないで「努力しなさい、努力することが最も大切なんだ」と言い続けてきたんです。

今日の記事はどうだったでしょう、ご意見ご感想をお待ちしています。

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