たのしい教育研究所の総会 たのしく盛り上がる

いろいろな総会を経験してきましたが、こんなに笑ってたのしんだ総会はなかなかありません。
たのしい教育研究所のメンバーは学校の先生たちがほとんどです。そのメンバーが会場の準備をしたり、食べ物を作ってくれたり、掲示物をいろいろ工夫してくれました。
総会の中では、一年の活動を映像で見せてくれます。
これがたのしい。
「こんなに活動したのか」と思いもひとしおです。

映像担当のA先生が
「ここで紹介した画像は1/100くらいです」
と、さらりと言った言葉におどろきました。。

約1000日(3年)の活動から、今年度からの1000日は第2ステージにすすむことが全員一致で確認され、これまでと違う取組みにすすむことが本決まりとなりました。

とてもたのしみです。

一年の活動報告映像の一枚を御覧ください。

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たのしい教育活動の普及、たのしい実力のある先生方のサポート、現場で使えるカウンセリングに普及に全力投球のたのしい教育研究所です。

必然的にたのしさを求めるのが教育

 国立政策研究所の板倉聖宣が1968年2月 大阪箕面市での講演の中でこういうことを語っています。

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例えば, ある人たちは
「子どもたちがかしごくなればよろしい。 その ためには, 勉強がつまんなくてもかしこくなればよろしい」と考えます。
  「もともと勉強というのはつまらないものであるから, それでも耐え忍んで勉強させなければいけない」 とこういうふうにも言い ます。
 また, ある人は
 「そうではない。 たのしく勉強しなければ, 勉強 というのは身につかないものだ。 身につけさせるためにも勉強というのはたのくしなければいけない」 と言います。

  おそらく すべての人が 一致するのは
 「子どもたちがかしこくなる。 知識が増え, いろいろな 判断力がつくようになる」
ということだと思います。


「勉強というものは楽しいものだ, いろいろな知識を身につけたりしてかしこ
くなるということは楽しいことだ」 ということを身につけることが,社会に出て自分自身で学びとる底力を作る。だとすれば, 「 たのしく勉強する」 ということがひとつの目的ではないか。

「教育の目的としてのたのしさ 1992年秋 四條畷小学校研究会資料」より

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 たのしい教育研究所が目指すのは、子ども達がたのしく賢くなる教育です。

 子ども達が無味乾燥に学ぶのではなく、嫌だというイメージの中で学ぶのではなく、その魅力を感じつつ学ぶ。
 それでなくては、生きた力・課題を突破する力は身につかないと考えているからです。
ごく一部、試験に勝ち残る人には意味があっても、教育は広くたくさんの子ども達の豊かさ・幸せを相手にしているのです。
 必然的に、一人ひとりの子ども達の喜び、学ぶ過程そのものがたのしさである教育を目指さなくてはいけません。

 幸い沖縄にも、それに賛同する人たちがゆっくりと増えてきています。
 ますます元気に取り組む、たのしい教育研究所です。

 たのしい教育、楽しい授業、本気の教員採用試験突破に全力投球の「たのしい教育研究所」です。

迫力ある文章とは何か/角川源義の文章。

 かつては活字中毒で、読書が欠かせない日々だったのですけど、教師を退職して起業してからというもの、絵に描いた様な忙しさで、趣味の読書というものはほとんどする時間がなくなりました。
今年通算4年目第二ステージに入る四月から少しずつ意識して読み始め、やっと昨日、文庫本を一冊読み終えました。

 とてもおもしろかった。
このままかつての読書三昧の日々に戻ったらどうしようという不安を少し抱えながらも、本という文化の素晴らしさを再感しています。

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手にした作品は東野圭吾の「ナミヤ雑貨店の奇跡」角川書房。

気軽に読めそうな上に、ヒット作というので出張にかかえていきました。
後半に行くに従って各章の関係が明らかになっていく仕組みになっていて、本のたのしさを味わえます。

さて、ずいぶん久しぶりの趣味の読書のせいでしょう。
本のいろいろなところが気になるものです。
作品とは別に、本の最後に書かれた文章に強く感動しました。
学生の頃読んでいて感動したのですけど、その感動をさらに深く感じます。

皆さんもきっと目にしていると思います。角川文庫の最後の頁、「角川文庫発刊に際して」と題した文章です。
角川の発行する全ての文庫に記されています。

文庫にあるくらいだから、単行本にはもっとしっかりした文章が記されているだろう、と思うかもしれません。
しかし、出版に対する熱き思いが記されているのは、文庫のみです。

それは、これから書き起こす文章を読んでいただければ理解できると思います。

書いたのは角川書店を設立した人物、角川源義(げんよし)。

彼の熱き思いがみなぎる文章、名文です。
そしてこの言葉は、さらに注目してよい言葉だと思います。

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 角川文庫発刊に際して               角 川 源 義

 第二次世界大戦の敗北は、軍事力の敗北であった以上に、私たスクリーンショット 2015-05-25 8.44.50ちの若い文化力の敗退であった。私たちの文化が戦争に対して如何に無力であり、単なるあだ花に過ぎなかったかを、私たちは身を以て体験し痛感した。
西洋近代文化の摂取にとって、明治以後八十年の歳月は決して短かすぎたとは言えない。
にもかかわらず、近代文化の伝統を確立し、自由な批判と柔軟な良識に富む文化
層として自らを形成することに私たちは失敗して来た。
そしてこれは、各層への文化の普及滲透を任務とする出版人の責任でもあった。
一九四五年以来、私たちは再び振出しに戻り、第一歩から踏み出すことを余儀なくされた。
これは大きな不幸ではあるが、反面、これまでの混沌・未熟・歪曲の中にあった我が国の文化に秩序と確たる基礎を齎らすためには絶好の機会でもある。
角川書店は、このような祖国の文化的危機にあたり、微力をも顧みず再建の礎石たるべき抱負と決意とをもって出発したが、ここに創立以来の念願を果すべく角川文庫を発刊する。
これまで刊行されたあらゆる全集叢書文庫類の長所と短所とを検討し、古今東西の不朽の典籍を、良心的編集のもとに、廉価に、そして書架にふさわしい美本として、多くのひとびとに提供しようとする。
しかし私たちは徒らに百科全書的な知識のジレッタントを作ることを目的とせず、あくまで祖国の文化に秩序と再建への道を示し、この文庫を角川書店の栄ある事業として、今後永久に継続発展せしめ、学芸と教養との殿堂として大成せんことを期したい。
多くの読書子の愛情ある忠言と支持とによって、この希望と抱負とを完遂せしめられんことを願う。

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 いかがでしょうか。

 角川源義とはどういう人物か?

彼は教師でした。

ウィキペディアにこうあります。

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一九四九年五月三日 城北中学校教師を経て、1945年(昭和20年)11月に
東京都板橋区小竹町で角川書店を設立した。 http://ja.wikipedia.org/wiki/
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1917年に生まれ、1975年に他界。スクリーンショット 2015-05-25 9.07.40
戦争を真ん中に体験しながら、新しい時代をリードして強く生きようとした人物でした。
いつか彼の事を深く調べてみたいと思っています。

この発行に際しての言葉が綴られているは角川文庫だけではありません。
岩波も、そしていろいろな「新書」にも、それを創刊した時の思いが最後の頁に綴られています。

ちなみに、たのしい教育には欠かせない「月刊 たのしい授業」仮説社 には創刊代表「板倉聖宣」が、年度が改まる4月ごとに「続刊のことば」として思いを語っています。ちゃんすがあればぜひ手にしてみてください。

たのしい教育・楽しい授業・仮説実験的カウンセリング・本物の教員採用試験対策に全力投球のたのしい教育研究所です。

科学的な見方・考え方「科学ではまだわからないこと」「科学の範疇を超えるもの」

前回の「霊界からのお告げ」はとても反響がありました。
今回は、少しその続きのような話になります。

宗教と科学が対立するのではなく、いつか、お互いを補完しあえる関係となることは、とても大切なことだと思っています。
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では、「科学」では説明がつかなくて、「宗教あるいは心の持ちよう」の範疇ではないか、ということはどういうものなのか、少し書いてみます。

「科学ではすべてのことはわからない」という批判はありますが、そういうことを書きたいのではありません。
時代が経て、いつか科学的に説明がつくようになるというのはたくさんあるからです。

そういう中でも、これは科学的に説明がつくようなものではなく、心の問題・想いの問題、つまり宗教的なものと関わる様なものかと思えることはいくつかあります。

 わたしは石が大好きで、旅したいろいろな場所の小石をたくさん持っています。
その場所に何千年何万年横たわっていたであろう小石が愛しくてならなくて、時々、たとえば穂高で拾った石を取り出して頬につけたり香りをしたりして、うっとりすることがあります。
見る人からすると「へん」ですね。

 けれど、そういう想いは、洋の東西を問わず、わたし達 人間が大切にしてきた不思議さなのだとおもいます。

 万葉集に大好きな歌があります。

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信濃なる 千曲の川の さざれ石(し)も
  君し踏みてば 玉と拾はむ
       詠み人知らず

 

川にたくさん横たわっている、ただの小石だけれど、大切なあの人が踏んだ小石なのだから、わたしにとっては宝物です。
そうやって、小石を拾って両手で包む様に大切に握っている姿が目に浮かんできませんか。

そういう心は、きっと、科学がいくらすすんで解明しようとしても、その範疇を超えている、人間のすばらしさだと思うのです。

 

西行という好きな詩人が詠んだ歌スクリーンショット 2015-05-21 13.02.35

願わくは 花の下にて春死なむ
 そのきさらぎの もちつきのころ

この命を、そういう季節に終えたいものだなと感じる人の心の妙は、納得できる説明を超えていると思えます。

まだまだあります。
わたしのが好きな ザ・ブルー・ハーツ のスクリーンショット 2015-05-21 16.49.55

ドブネズミ みたいに 美しく生きたい 

という心。

 

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まど・みちお の詩

そらの しずく?
 うたの つぼみ?
  目でなら さわってもいい?

この震えるほどの言葉のつながりを、どうやって科学的に解明するのか。
そして、その詩にうち震えるほどの感動を覚えるわたし自身の心を、どうやって解明できるのか…

いくつか書いてきましたが、わたしが
「だから科学は不毛なのだ」といいたいのではないことは、丁寧に読んでいただければ、わかってくださるとおもいます。

人間は、高度に発達してきた、こころの妙によって、実体を超えたいろいろなイマジネーションを働かせることができる様になりました。そういう力で、たとえば天国や地獄を想像したのでしょうし、生まれ変わりという想像をし、それを信じる人も出てきたのでしょう。

「科学」は、人間のこころでは判断つかない、あるいは判断を間違ってしまうことを正しく私たちに見せてくれます。

東から昇って西に沈む太陽。
どこをどうみても、太陽が動いている様にしか見えないのに、この地球が動いているのだという、驚くべき姿をはっきりさせてきたのです。
人間の想像を超える姿を次々と明らかにし、私たちの生活を豊かにし、「大切なあの人の命を救いたい」という私たちの心を、実現する力を私たちの前に準備してくれる、それが「科学」です。

そういう「科学」のすばらしさについては、また章をあらためて、いつか書かせていただきます。