軽石撤去ボランティア:ボランティアもたのしく/〈たのしい教育メールマガジン〉最新号から

 何にしろ、身体を動かすことはいいことで、それを兼ねて週一の〈撤去ボランティア〉に行ってきました。

 たのしい教育研究所の第一研究所に比較的近い海岸です。

 県が予算化したので作業がしっかり進んでいるのでしょう、砂の表面に見えている軽石は目に見えて減っていることがわかります。

 重機を利用して力技で取っていったのでしょう、これまで砂の表面にあった軽石のいくらかが砂の中に潜り込んでしまいましたね。
 持ってきたザルで砂と分けて作業しました、こういう作業も重機などで一気にできるといいのにね。

 
 砂浜に寝っ転がる様な海岸に戻すには細かい作業が必要になります、人の力が必要な様です。

 最近身体がなまっているなぁ、という方は、ふるいに利用するためのザルなどをもって海岸に足を運んではどうでしょうか。

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こどもの笑顔と賢さと/新作バランス・プテラノドン

 毎週、地域のこども達にたのしい教育を実施しています、その中でたくさんの感動が生まれます。

 コロナまん延防止の中で公民館が使えないところもあり、こども達が家庭で実験やものづくりが楽しめる様に〈感染症対策セット〉と一緒に教材をプレゼントしているのですけど、こども達や保護者の皆さんがとても喜んでくれます。

 これは最近開発した〈バランス・プテラノドン〉、ワリバシの先にくちばしでのるペーパー・クラフトで、物体の重心を学ぶことができる教材です。

 さっそく持って帰って家で作り、自分で発見して見せに来てくれた子がいました。

「手にもバランスよくとまってくれるんだよ」と嬉しそうです。

 こども達が感動的に学んでいくことが、これからの教育には不可欠です。

 そういう子がいろいろな発見や発明してくれるでしょう。

 そういう未来をたのしみに、たの研のメンバーは〈たのしい教育〉に全力投球しています。

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たのしい読書案内-小学校の国語の本の想い出/教科書的だというのは貶める言葉だけれど私には好きな教科書がいっぱい(子ども達にも伝えたい話)

 数回前の〈高校国語の教科書が愛読書〉という記事の後「注文しました」「高校の教科書を息子から譲ってもらって読んでいます」「古本屋さんに探しに行きましたが置いていないですね」という様な便りが届く様になりました。

「科書的だ」というのは貶める時に使う言葉だけれど私には好きな教科書がいっぱいあります。それに負けず「いい教科書もたくさんある」ことを伝えたいし、特に国語の教科書の内容にはいいものがたくさんあることは何度も書いておきたいと思っています。

「教科書」の想い出はたくさんあって、私の教師のスタートの時の国語の教科書のこともその一つです。

 国語の時間、子どもたちと一緒に朗読するのが大好きでよく読んでいました、その時強く残っているのが「太郎こおろぎ」です、今も掲載されているといいのだけど。

 いい話でした。

 私が務めることになった学校は少しだけ山側に登り始めた位置にあって、そこから山の頂上を見上げることができました。少し歩くと湧き水がコンコンと流れ出る場所があって、そこに行くと野菜を洗いにきた人たちからいろいろ話を聞かせてもらうこともできました。「太郎こおろぎ」に出てくる校舎は小さくて昔風だったのですけど、私にはまるでその学校が教科書に登場したかのような思いがする作品でした、遠くに見える山際もちょうど挿絵の様な感じがします。子どもたちも、自分の個性を包み隠そうとしない、すてきな子ども達ばかりでした。

 今でも心を澄ませるとあの頃の景色が目に浮かんできます、そして子ども達と朗読した大きな声の響きも聞こえてきます。

 題名の〈たろう〉が主人公といっていいでしょう、そこに〈しのちゃん〉と〈わたし〉が重要な役で登場します。

 最後の「太郎は◯◯になって、学校に立派な、◯◯◯◯」という終わり方は、半分好きで、半分は「もったいないことをしたな」と感じたことも覚えています。

 

 みなさんが心に残っている教科書の話があったら聞かせてくださいね。

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見える現実から出発せず予想・仮説から出発するのが原子論つまり科学/たのしい教育メールマガジンから

 第3たの研のホワイトボードの上の方にこういう言葉が掲げられています。

算数も理科も社会も国語も医学も宇宙も人生も
あらゆることを「原子論」で考えることが基本中の基本!

 それはたのしい教育研究所の基本スタンスで、大切な時に立ち返る大切な原理です。
 目には見えなくてもそこに物質が存在すること、そしてそれには重さがあること、それを元に予想を立てて確かめることが原子論、つまり本物の科学です。
 宗教は〈信じること〉から始まりますから科学とは全く異なります。
 たのしい教育は宗教ではなく科学です。
 仮説実験という科学に基づいて考えていくのが〈原子論〉です、そして原子論を考える基本にして生きているのが〈原子論者〉です。
 1986年に師の板倉聖宣がこう語っています、「歴史の見方考え方講座」第一回目の内容からです。

板倉
「原子論的な」という時には2つの意味があります。
 1つは「原子論」というのは唯物論の元祖で〈ものの根源が原子にある〉という考え方です。
もう1つは〈目に見えない原子というものを見るにはどうしたらいいか〉という時に仮説を立てるということです。仮説を立ててはじめて見ることができるからです。
「実証主義」という言葉があります。
 歴史学者が「実証主義」という時には、だいたいほめ言葉で使います、しかし自然科学では悪口に使います。
〈実証主義というのはものに従って判断する〉ことです。ということは〈事実に基づいて判断する〉ということです。
「自分の考えだけで考えるような観念論的なものと比べれば遥かにいい」という考えがあると思います、実際に証拠があってそれを基に判断するというわけですからね。
 すると実証主義者からは原子論は目のカタキになります、原子というのは目に見えないですから。
 実証主義者から見ると〈神と原子とは同格〉です。神は目に見えないし、原子も目に見えないのですから。
 つまり〈原子が存在する〉と仮定して話をするのは実証主義ではないのです。
 1870~80年ぐらいまで実証主義者にとって原子というのは存在しないものでした。「原子がある」と考えるのは非科学的なことでした。
 今となってみれば明らかに原子はある。
 仮説実験的な認識方法を基にすると原子は存在しているわけです。実証主義者というのは〈実際に見えるか見えないか〉を重んじるだけで、仮説実験的な認識方法を重んじないのです。

 今朝起きてみると太陽が昇っている。昨日もそうだし、一昨日もそうだった…
 毎日毎日見ていると東から出て西に動いている。
 何回見たってそうなのです。
 事実をもとにする、つまり実証主義でいくと天動説が正しいことになります、実際にそう見えるからです。
 ところが実際にはこの地球が回っていた。
 目に見えないものを考える時には、必ず仮説が重要になるんです。
 進化論も目に見えませんね。
 目に見えないものを主張するためには、どうしても仮説がなくてはなりません。
 そうやって確かめていくのが原子論です。

 
 これは〈たのしい教育メールマガジン〉の最新号のほんの一部です。この公式サイトにも、たのしい教育の発想法をとてもたのしみにしてくださっている皆さんがいます。今年も発想法を綴っていきたいと思います、ご期待ください。

 

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