たのしい科学-楽しい学力〈花のイメージ・概念〉

 最近は読者の方からのお便りが増えてきました、嬉しいことです。〈自閉症スペクトラム〉をめぐっての精神疾患の種類の多さについて「共感しました」という趣旨の長いお便りをいただいています、いずれそれについても書かせていただきます。
 さて前回の記事で野草たちの花の美しさに感動し、さっそく注文しましたという方もいました。最新のメルマガの発想法の章に板倉聖宣先生が語った〈花のイメージ〉の話を紹介しました。ちょうど流れがよいので、その前半を紹介しましょう。
 2002年に大阪堺市の〈ことばの教育・国語教育研究会〉で語った話です。

 話が理解しやすい様に校正し参考の写真をつけました、文責は私いっきゅうです。

■科学上の花
 私の家は東京のまん真ん中でしたから庭などはありませんでした。
 今は庭のある家に住んでいますから〈すごく特権的だ〉と思っておりますが、以前の東京のまん真ん中に住んて゛いた頃も半坪ぐらいの庭があって一本だけヤツデの木があったのです。
 ヤツデの木というのを知っていますか?

 ヤツデは八つの指のような大きな葉があるのです。かなり強い植物なので東京のまん真ん中でも育って、冬には人々が「花」と称するものが咲くのです。私は断固としてそれを花とは認めませんでした。

 だって花びらもない、私にはきれいとも思えない、だから私は断固として「花ではない」と思ったのですが、ケシカランことに多くの人は「花」というのです。
 ヤツデはまだ許せるのですが〈イネの花〉、これは絶対に私は許せない(笑)。
イネの花を見たことがありますか?

 まあ、無理して「きれいだ」といえばきれいでしょうけども相当に無理しなければイネの花はきれいとはいえません、花びらもないし。
 だから誰かが「イネの花」といったときに「そんなものは花ではないよ」と私などは思うのですが優等生は簡単に「先生がいっているから、これはイネの花だ」というのです。
 ムギの花でもそうです。

 私たちが花とは思わないものを、たくさんの権威主義的な人が花と認めてしまうのです。それで「権威主義的な人がみんな花と認めても、俺は断固として花とは認めないぞ」というのが小学生の私の決意だったのです。

イネやムギの花を花だと納得する段階
 もちろん今の私はイネの花も認めますしムギの花もヤツデの花も認めます。
 しかし「花とは、花びらがきれいであるもの、飾っておくに値するものである」というのが普通の人の定義ですから、ヤツデの花や、イネの花や、ムギの花を〈花〉と認めるためには納得する段階が必要になるのです。
 花が咲く植物はみんな実がなるのです。
 そして「どうも植物は実をつくるために花が咲くらしい」という気がしてきます。
 そうすると「花びらがなくとも実が成ったら花と認めてやってもいいのではないか」ということになります。
 実際〈イネ〉の花には実がなりますし、ムギの花にも実が成ります、その他の花にも実が成るのです。
 例えば「枝豆と大豆とは違う」といって大変叱られたこともありますが、枝豆の花とか大豆の花もよくよく見ればキレイなのです。


 しかしよくよく見ないと花は分かりません。枝豆を栽培している農家でも枝豆に花が咲くことをほとんど知らないのです。
 私どもが枝豆の花の写真を撮ろうと人さまの畑に入って写真を撮っていると、そこの持ち主が現れました。
「なにをやっているのですか?」
「いや、枝豆の花の写真を撮っているのです」
「え、枝豆に花が咲くのですか?」
「咲くんですよ、これです、キレイでしょう!」
「へえ、そうですか、知らなかった!」
 枝豆に花が咲くことを知らなくても、枝豆の実が成れば農家はやっていけるのです。
 枝豆もよく見るとキレイな花が咲いて、そして実が成るのです。

 だから日常生活上の花の概念からは枝豆の花は目立たない花だけども、よく見ればキレイで、そして実が成っているということになると
「どうも植物の立場から見ると実が成るような花が咲くものは、花と認めてもいい」
ということになるのです。
 そして実が成るために一番大切なのは〈雄しべと雌しべ〉とか、雌しべの下にある〈子房〉で、雌しべの先につく〈花粉〉とかだということがわかってくる。
 植物では〈花びら〉よりこちら〈雄しべ・雌しべ〉の方が大事なのだから「これを〈花〉と呼んだ方がより合理的ではないか?」ということで、子どもたちや、みんなとの合意の上で〈花の概念〉が変わってくるわけです。
 それに対して、今までの教育では「子どもたちとの合意の上で概念を変える」ということを全然やっていません。

 後半はさらに熱がこもってくるのですけど、ここまでにしておきましょう。

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「われわれは皆どこかおかしい」〈イタリアのことわざ〉という発想

 次号の〈たのしい教育メールマガジン〉の「映画の章Plus」に〈自閉症スペクトラム〉について触れるので久しぶりにアメリカ精神医学会が作成している〈DSM〉という精神疾患の診断基準・診断分類マニュアルの中身を具体的に確認しています。

 みなさんは精神疾患、たとえば〈うつ病〉とか〈適応障害〉といった病名はいくつくらいあると思いますか?
  予想してみてください。

予想

ア.10くらい

イ.50~70

ウ.100~120

エ.200~220

オ.250~

どうしてそう予想しましたか?

 

まだ、調べ始めなのでこれからというところなのですけど、ある論文の中にこういう文章を目にしました。

「19世紀半ばにおこなわれた精神病患者に対する最初の調査には6つの疾患しか載っていなかった。現在では200近くある」(Frances,2013,p.53)
だが Frances は診断名の数を低
くみつもりすぎていて,Ghaemi(2007)による と DSM-III-R(American Psychiatric Asso-ciation, 1987)では292,DSM-IVでは297の診断名がある。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscap/57/1/57_205/_pdf/-char/ja

DSMはバージョンが新しくなるほどにどんどん新しい病名が加わっていますから、DSM5では300以上の精神疾患が分類されていることでしょう。

 症状の訴え方によっては〈片付けないと気持ちが落ち着かない人〉も精神疾患となり、〈かんしゃくをおこしやすい人〉も病名がつけられてしまうことになります。

 こういう様に精神的なものにどんどん病名をつけていって何がどうなるのか?

 一番大きなことは〈薬を処方できる〉ことです。

 ところで、学校でも行動スタイルにしろ成績にしろ、その学年の普通のこども達の状態から大幅に外れてしまう子どもは特別支援クラス対象になってしまうことがあります。

 どんどん〈特別な集団〉を作っていく、「平均からかなりはずれているので指導が難しい」という人たちを別のクラスに分けていく流れもDSMでどんどん精神疾患名が増えていくことととても似ています。

 イタリアに「われわれは全てどこかおかしい」という諺があります、そういう集団が社会なのだということです。
 〈私は全て平均値〉なんていう人はいません。
 みんなどこか平均値から大いにずれているところがあるでしょう。

 もちろん私いっきゅうにもたくさんあります、学校で「子ども達の方が自分よりはるかに上だ」と感じたことはたくさんあります。

 病気を増やし平均よりこれくらい低いという人たちをどんどん分類していく状況の中で「みんなヘンなところがあるんだよ、そういうどこかおかしいところが作用しあって、社会全体はよりよい方向にすすんでいくのだし、より優しい社会になっていくんだよ」と考える人たちが増えていくことも大切だと思うのですけど、どうでしょうか。

 もちろん、この人には特別な手立てが必要だしそれでどんどん伸びていくということもありますから、一方の面からではなくその両方の面から考えをすすめていける人たちが必要なのだと思います。

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教育の中にひそんでいる〈押し付け〉に気づくこと-たのしい教育の発想法-仮説実験授業研究会代表〈板倉聖宣〉が語ったこと

 週一で発行しているメルマガは4章で構成されていて、ラストは〈発想法の章〉です。今週その章にのせた板倉聖宣先生の話にさっそく反響が届いています。
 歯に衣着せぬ語りの板倉先生の話を読むと「え!」と驚くかもしれませんけど、板倉先生は文科省直属の教育研究所で室長をしていた人物です。

 批判ではなく提案をする組織である〈たの研〉の重要な〈たのしい教育メールマガジン〉に板倉先生が発する言葉を紹介するのはなぜか?
 それは私いっきゅうの自戒であり、教師が多く陥りやすい落とし穴に足をとられない様にするためだったものが、広く〈こども達の笑顔と可能性を広げようと努力する教師たち〉の心を動かす言葉でもあることに気づいたからです。
 メルマガへの反響は若い先生たちからも届きます、こういう考え方を心に留める先生たちが増えて行って欲しいと思っています。

 最新号の〈たのしい教育メールマガジン〉の発想法の章の中から再校正して少し紹介します購読しているみなさんも新鮮な気持ちで読んでいただけると思います。
 板倉先生が2002年に 大阪堺市〈ことばの教育・国語教育研究会〉で語った内容です。

板 倉

 教育はそのほとんどが〈文章〉と〈話し言葉〉で行なわれています、そしてそこに押し付けがたくさん潜んでいます。
 言葉というのは非常に便利なものですが、学校の教師はどうも権力の片棒を担いでいて「自分には押し付ける権利ある」と考えているふしがあります。
 だから子どもたちが分からなかったら「教師は正しくて、子どもがいけない」と考えてしまうことになるのです。
「教科書に書いてある言葉が正しくて、理解出来ない子どもが間違っている」というようなことは私には許せないのです。
 国語でいえば、こども達が理解出来ない文章を書く小説家がいけないのだし、理解が出来ない文章を教科書に載せている編者がいけないのです。
 言葉というものは理解出来るようになっているのですから「理解出来ないような言葉を教科書にのせてはいけない」と思うのです。
「子どもはまだ社会の中に充分に入り込んでいないのだから、大人になった時には理解できる。そのために分からないことがあっても仕方がない。だから学校教育では理解できなくても教えるのだ」という考え方もありますね、そうならそうで結構なのですが、たいがいは、その理解出来ないことを一生持ち続けることになってしまいますね。

 私いっきゅうにも、学校で教えられたことで謎のままなことがたくさんあります、それに溢れているいってもよいと思います。
 中学の社会の先生が〈尾根というのはこれこれこうだ〉と語ったこともさっぱりわかりませんでした、今もあえてわからないままにしています。
 前にも書いた様に英語は特についていけませんでした。
「Takeの意味はこれこれこうでたくさんあって、多くは〈つかむ〉という意味、でもこの場合のTakeは〈撮る〉という意味だ」という様に説明された時に〈こんな不合理な言葉に付き合うのはやめよう〉と考えました。
 先生の言う様に覚えていった人たちはほめられ、こんな風に学ぶのは嫌だと感じた私の様なタイプの人間は先生から冷たくあしらわれていきました。
 もちろん私の様にあしらわれた人たちが増えていき、ほめられていく少数の人たちはその後もどんどん減っていきました。
 映画のおかげでその後自力で学び、そういう様な組み立てパズルの様に教えいた先生たちの方が不勉強なのだと知ったのは10年以上経ってからのことです。
 Takeという単語をネイティブの人たちは「自分のところに取り込む」というイメージで理解していて、みかんをとるのも、自分のところにとりこむイメージ、写真の中に取り込んだりするのもTakeを使う。ちなみに〈薬を飲む〉という行為も自分の中に取り込むというイメージで〈Take medicine〉と使ったりするとわかったときに、やっとすっきり英語が理解できる様になってきました。

 教師になった私は、あの時の英語の先生の様に「わからないあなたたちが悪い」というタイプになっていないだろうか?
 この板倉先生の話で、我が身を振り返る大切な機会にもなりました。
 ここまでにしておきましょう。

 

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たのしい教材シリーズ〈仲良くなれる教材:リングキャッチ〉

 今年の秋の講座でM先生が紹介してくれたリングキャッチの熱がさめず、色々なところで、ためしています。

 ある先生が言っていました、「〈こうすれば簡単にできる〉というのもよいけれど、なかなかできずに〈これでどうだ、これではどうだ〉とグイグイひっぱってくれる教材もとてもいいですね」

 これがリングキャッチです。
 ヒモに通した金属の輪を落とすのですけど、タイミングを合わせることができると、なんと金属の輪が落ちずにヒモにぶら下がるのです。

 まさに「リングキャッチ」はグイグイのめり込んでしまう〈たの研〉おすすめの教材の一つです。

 今日は1年生と5年生が一緒の授業がありました。

 授業が一通り終わって、まとめの時間に

「えーー、これから先生が手品をします、よーく見ていてね」

 そういって針金で作ったリングと毛糸を見せました。

「たねもしかけもありません。」この毛糸の輪っかの中にリングを入れますよ!
「先生がこのリングを手から離すとどうなると思う?」

「真っ逆さまに落ちるでしょ」と5年生の女の子。
1年生の子は「もしかしたら引っかかって落ちないんじゃない?」との予想です。

「じゃあやってみるよ。せーの1・2・3!!」

 2回ほどはそのまま下に落ちて、
「あれれ上手くいかないなあ」
といいながら3回目。
 みんなで1・2・3!!

 みごとにリングを毛糸がキャッチしてくれて、みんなで大盛り上がりです。

 さあ、自分もやって見たい人!というと全員が私の前に寄ってきてチャレンジ大会が始まりました。


 学年の年齢や力の差は関係なく楽しめるこういった教材は、特別支援にもとっても重宝します。

なんと真っ先にできたのが1年生の男の子でした。

 とーってもうれしそう、信じられないというようにな興奮気味です。

 その後も、同級生の男の子にやり方を教えてあげることで、会話がはずみました。

 1年生の男の子は、今日は家に帰ってお母さんに1番に見せたいようで、大事にリングキャッチを持って帰っていました。

 明日の朝、家での出来事を聞くのがとても楽しみです。

 いっきゅう先生がよく語っているのですけど
「たのしい、と感じて、そこから何も学ばない人がいるだろうか?
 そして、自分の可能性を感じて喜ばない子がいるだろうか?
 私たち大人だってたくさんのことを学びます。
 大人よりはるかに感覚にとぎすまされたこども達はそこからたくさんのことを学んで、自分の可能性をどんどん高めていくことは間違いないでしょう」

 たの研の教材は、すべて楽しめる実験済みです、ぜひいろいろな先生たちに広めていきたいです。

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