カール・セーガンの言葉たち Pale blue dot./たのしい英語教育の教材としても

 大好きなカール・セーガンの話に入る前に、前々回の「ゆとり教育と円周率」について。記事の反響はまだ続いていて、いろいろな質問が届いています。わたしにとってはごく当たり前のことだったのでサ イトに書くのも今頃になってしまいましたが「円周率を3として計算することの素晴らしさ」そのものは、教師になって数年御、高学年をもたせてもらったとき に始まっています。もう二十数年前からのことになります。

 この反響からすると、おそらくいろいろな方達が興味を持ってくれると予想できるので、可能な方はぜひ周りの方達に「この記事面白いよ」と伝えて読んでもらうことを提案します。もしかすると「だからゆとり教育はダメなんだ」という意見もあるかもしれませんが、中には子ども達と同じ様な感覚で「おもしろいね」と言ってくれるが出てくるでしょう。そうやって、地道にですけど確実に「たのしい教育」が広まっていくのだと思っています。可能な方はぜひお願いいたします。

 さて今回は、わたしの発想法を語る時に重要な人物、カール・セーガンについて書きたいと思います。

 わたしはカール・セーガンからとてもたくさんの影響を受けています。
 彼が綴った本を繰り返し繰り返し読みましたし、同じ本を何冊も持っています。
 地球の生き物や大地の美しさ素晴らしさは星野道夫から学び、星としての素晴らしさはカール・セーガンから学びました。

 セーガンは宇宙科学で有名です。
 彼が一般の人達に向けて作成したTV番組に「コスモス」があります。レンタル屋さんでは見たことがないのですが、DVDは販売されています。
 名作です。
 教師時代に、教材として購入してたくさんの子どもたちに観てもらいました。
※わたしが購入した頃は2万円を超えていたのですけど、かなり安くなっていて、DVD7枚パッケージで、書いている今現在で1万円を切っています。日本語字幕もついています。

 

 その中の一部、しかもとても感動的な部分がyoutubeで視聴できます。
 それが  Pale blue dot. です。

%e3%82%ab%e3%83%bc%e3%83%ab%e3%83%bb%e3%82%bb%e3%83%bc%e3%82%ab%e3%82%99%e3%83%b3%e3%81%ae%e8%a8%80%e8%91%89%e3%81%9f%e3%81%a1 Pale(淡き) blue(青き) dot(点).

 地球のことです。

 セーガンの本のタイトルにもなっています。

 観測の役割を終えた探査機ボイジャーが太陽系の端に到達しようとする時、NASAのボイジャーミッションにも関わっていたセーガンが「ボイジャーを地球の向きに回転させて、写真を撮ってもらおう」と提案しました。

 遠く離れた探査機にうまく命令を伝えられるか。無理な体勢変換で、その後、太陽系を無事飛び出ると期待している流れに影響がでないか。そもそも地球が写るのか?
 いろいろな反論があったでしょう。
 しかしNASAは最終的にセーガンの提案を受け入れボイジャーのカメラを地球に向けました、さすがです。

 セーガン自身がその画像を感動的な言葉で伝えてくれています。
 ぜひごらんください。ほんの3分少しの時間です。

 動画を見るのが難しい方もいるかもしれません、ボイジャーが振り向いて撮った写真も載せておきます。この右側の茶色の帯の中ほどやや下がわにある点が地球、Pale blue dot. です。

wikipediaに感謝して

 

この距離から見ると、地球というものは、さして興味深い場所には見えない。
しかし、私たちにとっては違う。
この点をよく見てほしい。
あれがここだ。
あれが故郷だ。
あれが私たちだ。

ここにすべての人が住んでいる。

愛する人も、知人も、友達も
いままでに存在したすべての人が、
みなここで人生を送っている。

喜びも悲しみも、自信たっぷりの幾多の宗教も
政治思想も、経済主義も、
すべての狩人も、牧人も、英雄も、
卑怯者も、文明の創設者も、破壊者も、
すべての王様も、農民も、
愛し合う夫婦も、すべての父と母、
希望にみちた 子ども、
発明家、そして探検家、
道徳を教える先生も、腐敗した政治家も、
スーパースターも、偉大な指導者も、すべての聖者も、
罪人も、人類の歴史上すべての 人が、ここに住んでいる。

太陽の光照らされた、塵にもひとしいこの場所に。

地球は、とても小さな舞台だ。
広漠とした宇宙の中では…

 

考えてみてほしい。


すべての将軍や皇帝が、勝利と栄光の名のもとに
流した血の河を。
この点の、そのまたごく一部の、
つかの間の支配者となるために。

考えてみてほしい。

この点の片隅にいる住人が、
別の隅にいる ほとんど見分けのつかない住人にたいして、
どれほど残虐な仕打ちをしてきたのかを。
どれほど多くの誤解があることか。
どれほど熱心に、人は殺し合うことか。
どれほどの激しい憎しみがあることか。

私たちの気どった態度、思いこみによる自惚れ、
自分たちは特別なんだという幻想。
この青白い点はそのことを教えてくれる。

私たちの惑星はこの漆黒の闇に囲まれた、
ひとかけらの孤独な泡にすぎない。

この広漠とした宇宙では、私たちは名もない存在だ。

他に助けてくれる人はいない、私たち自身をのぞいては。

地球は、現在までに知られている生命をはぐくむ
唯一の星だ。

すくなくとも近い将来、
ほかに人類が移住できるような場所は存在しない。

行くことはできるか?
たぶん。
住むことはできるか?
いや、まだ。

好き嫌いにかかわらず
いまのところ地球が私たちの住む場所だ

天文学は、人を謙虚にし、

身のほどをわからせる学問だという。
人間の思い上がりを示すのに、

これほどふさわしい例もないだろう。
私たちのちっぽけな世界を、

はるか彼方からみた景色ほどには。

 

私にとって、この映像は

私たちの責任を表しているように見える。
もっとお互いに気を配り、

この青白い点を大切にするとい う責任を。

私たちの知っている、ただ一つの故郷を。

“想像力なくしては、私たちはどこへも行けない”

カール・セーガン(1938~1996)

 

 アナウンサーではありませんが、カール・セーガンの言葉は聞きやすくて、英語の教材にもなると思います。
 残念ながら中学生に英語を教えるという機会はまだありませんが、わたしなら、この3分ほどの教材を英語に使います。きっと子ども達も、この言葉のどれかに感銘をうけて、そのフレーズを覚えてくれるのではないかと思います。

 興味のある方のために、英文も載せておきます。

From this distant vantage point,

the Earth might not seem of any particular interest.

But for us, it’s different.

Consider again that dot.

That’s here, that’s home, that’s us.

On it everyone you love, everyone you know,

everyone you ever heard of,

every human being who ever was, lived out their lives.

The aggregate of our joy and suffering,

thousands of confident religions, ideologies,

and economic doctrines, every hunter and forager,

every hero and coward, every creator

and destroyer of civilization, every king and peasant,

every young couple in love, every mother and father, hopeful child, inventor and explorer,

every teacher of morals, every corrupt politician,

every “superstar,” every “supreme leader,” every saint and sinner in the history of our species lived there

—on the mote of dust suspended in a sunbeam.

 

The Earth is a very small stage in a vast cosmic arena. Think of the rivers of blood spilled by all those generals

and emperors so that, in glory and triumph,

they could become the momentary masters

of a fraction of a dot.

Think of the endless cruelties visited

by the inhabitants of one corner of this pixel

on the scarcely distinguishable inhabitants

of some other corner, how frequent their misunderstandings, how eager they are to kill one another, how fervent their hatreds.

Our posturings, our imagined self-importance,

the delusion that we have some privileged position

in the Universe,

are challenged by this point of pale light.

Our planet is a lonely speck in the great enveloping

cosmic dark.

In our obscurity, in all this vastness,

there is no hint that help will come from

elsewhere to save us from ourselves.

The Earth is the only world known so far to harbor life. There is nowhere else, at least in the near future, to which our species could migrate. Visit, yes. Settle, not yet. Like it or not, for the moment the Earth is where we make our stand.

It has been said that astronomy is a humbling

and character-building experience.

There is perhaps no better demonstration

of the folly of human conceits than this distant image

of our tiny world.

To me, it underscores our responsibility

to deal more kindly with one another,

and to preserve and cherish the pale blue dot,

the only home we’ve ever known.

–Carl Sagan, Pale Blue Dot, 1994

たのしい教育は感動を伝える教育です。
日々元気に活動する「たのしい教育研究所」です。

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと強くなる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 応援として〈SNSや口コミ〉でこのサイトを広げていただければ幸いです!

仮説実験授業の誕生(仮説実験授業研究会)/仮説実験授業の誕生は1963年

 九州の大学で仮説実験授業を卒業論文のテーマにしているAくんから相談が来ました。

 最も初期の仮説実験授業について知りたい。それと併せて「仮説実験授業はいつ生まれたか」という時の根拠になるものを知りたいです、という話です。

 

 「仮説実験授業の誕生」の頃の資料を探してみましょう。仮説実験授業の生まれたあたりには、いくつかの画期的な出来事がありました。

A.1963年4月から同年7月まで上廻昭氏が国立教育研究所の板倉聖宣氏のもとに内地留学し、板倉聖宣の構想で授業書「ふりこと振動」の授業が完成

B.雑誌「理科教室」1964年2月号、3月号に「ふりこと振動」の授業記録を発表

C. 仮説実験授業研究会が1964年3月3日に「仮説実験授業研究 別冊-仮説実験授業の記録」①②を創刊

D.1964年10月5日タイプ版として「仮説実験授業研究」No.1を創刊

 

 このうちのどれを「仮説実験授業の誕生」と位置づければよいのでしょう?

 タイプ版の「仮説実験授業研究」創刊1号に板倉聖宣が「私たちの研究の立場-創刊にあたって-」という文章をまとめています。

 こう始まります。

仮説実験授業研究 板倉聖宣

板倉聖宣

 私たちが仮説実験授業の名のもとに共同研究をはじめてから一年あまりになります。

 仮説実験授業の起点を1963年とすることは、異存ないでしょう。

 50年以上経た今「仮説実験授業研究」を読むと、その瑞々しさと迫力を感じさせる中に、「仮説実験授業の技法はほぼ全て確立し、その大きな成果もすでに現れていたこと」を知って驚ろかされます。

 

 このサイトに関して「仮説実験授業のことをいろいろ知ることができて、とても貴重なサイトです」という感謝の言葉がいくつも届いています。これからも仮説実験授業のことを綴っていきたいと思っています。ご期待ください。1日1度のこの「いいね」で〈たのしい教育〉を一緒に広げましょう➡︎ いいね=人気ブログ!=ジャンプ先でもサイトをワンクリックすると尚うれし!</a</p

グッジョブ授業プラン「科学技術の発展/たのしいキャリア教育」の一部|たのしい事は進化せずにはいられない|ひろがる「たのかし活動」!

たのしい教育研究所の喜友名はいろいろな処での授業や講座、講演活動、教育相談などを実施しています。

そうやって飛び回りつつも、たのしい教育に興味・関心を持ってくれる方達が実施できる授業開発、授業クリエイターとしての活動にも力を入れています。

これもたのしくてなりません。

「たのしい教育教材」を開発するにあたっては、特別な材料などを利用するのではなく、学校や家庭で普通に入手出来るもの、それは難しくても100均にいけば安価で簡単に入手出来るものを利用するなど、次の目標で作成しています。

① たのしい教育を実施しようと思う先生方なら誰でも授業することができる

② 授業を受けた人たちの「たのしさ度・わかった度」が90%レベル(85〜94%)になる

 板倉聖宣「仮説実験授業ABC」の考え方をベースにしています

同時進行でいくつかの授業プランの開発が進んでいますが、この公式サイト上でも人気の「しんぶんゴマ」について、少し紹介させていただきます。

 

———- 科学技術の進歩 ———-


質問

みなさんは「コマ」の歴史をたどると、どれくらい前にさかのぼることがコマできると思いますか?
どれくらい前の人たちがコマを作って遊んでいたのでしょう?
コマといっても最近のものではなく、材料も木や実などいろいろ簡単にたのしんでいたころにさかのぼって予想してみてください。

予想 今から
ア.100年くらい前
イ.500年くらい前
ウ.1000年くらい前
エ.そのほか

どうしてそう予想しましたか?

 

いろいろなところでこういう問題を出しているのですけど、子どもも大人も
「ア.100年くらい前」
が多いようです。

みなさんの予想はどうでしょうか?

予想を立てずしてたのしく賢くなることは無理です。

続けましょう。

「日本独楽博物館」のWebサイトには「世界を見渡すと2500〜3000年前のコマも見つかっている」とあります、他の資料によると5000年くらい前までたどることができることがわかります。

 

昔のコマのイメージ

 

さて、あなたの「しんぶんゴマ」はどれくらいの時間まわすことができましたか?

30秒以上回ったという人達が何人もいました。
すごいですね。

では、よくできたコマはどのくらい回すことができるのでしょう?
コマの種類は多く、傘より大きくて一人では回せないコマもあります。それらではなく、私たちが作ったコマのように、片手で回すことができるタイプのコマで調べてみましょう。

「全日本製造業コマ大戦」といって、いろいろな工場がつくるコマを回して長さを競う大会があります。その記録によると、日本の「上坂精巧」という工場がつくったコマ  (写真)が「12分41秒」回ったということです。とても安定したコマですね。
コマ記録

 

 コマはもともとたのしみごととして出発しましたが、その後、いろいろなものに広がりました。

コマが応用されて利用されているものについて、みなさんは何か思いつきますか?

 

思いついた人は出してみましょう。

 

お話「コマの発展」

 

たとえば時計の中の重要な部分にもコマの形をした部品ものが利用されています。
時計の中 時計の中のコマ 考えてみると、扇風機も電気の力で回しているコマの様なものですね。

 

それだけではありません、科学者たちのいろいろな研究で、なんと私たちの地球も、コマの様に回っていることがわかりました。「自転」といいます。

 

ところで、科学の最先端といってよい「人工衛星」にも重要な備品としてコマが利用されているのです。「リアクションホイール」と呼ばれています。
そのコマを回すことで微妙な姿勢のコントロールをおこなっているのです。
文字通り、コマが宇宙を飛んでいるのですよ。

たとえば日本がほこる惑星探査衛星「はやぶさ」の中に入っているコマを見てみましょう。

はやぶさ©JAXA

2010年には「小惑星イトカワ」から岩石の粒を持ち帰って世界中を驚かせました。

その「はやぶさ」の内部にも三ヶ所に「リアクションホイール」と呼ばれているコマがセットされていました。

はやぶさ リアクションホイイール

©JAXA

 

 はじめは単に遊びと思われていた「コマ」でしたが、人間の知恵と工夫、それをいろいろなものに発展させてきたのです。

たのしいことなら、どんどんそれに知恵と工夫を重ねていくのが人間です。

みなさんも、自分が「これはたのしい」と思っていることについては、誰に言われたわけでなくても、自然に知恵と工夫を重ねていると思うのですけど、どうでしょうか?

それはつまりわたしたち人間の素晴らしさです。

 

というように続いていきます。

たくさんの方達が「しんぶんゴマ」を作ってたのしんでくれています。

それはそれでとてもたのしいのです。
それに加えてチャンスがあれば、子どもたちに、こういうことを話していただけるといいなと思っています。

たのしい教育は人間のすばらしさの証です。
教育が成熟してきた証でもあります。
みなさんの応援をお待ちしています。

ひろがるたのしい教育
たのしく賢くすくすくと
「たのかし活動」展開中です。

 

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

人物の見方・考え方|気骨と実力ある男「西堀栄三郎」(長文)

西堀栄三郎について、何度か書きましたが、実は、彼を「大嫌いだ」という人たちもいます。
あまり語られない話ですが、人物をみるときの見方考えたということで、今回はそのことを書きましょう。

日本人が大好きな「タロとジロ」の物語をご存知でしょうか。

南極に置き去りにされた樺太(カラフト)犬たちの中で、二匹だけが厳しい寒さに耐えて生き残り、無事に救助されたという話です。

日本中を感動につつみ、小説にも絵本にも、そして映画にもなりました。

実は、犬たちを置き去りにするという決定を下したのが、そのときの第一次南極越冬隊の隊長 西堀栄三郎だといわれることがあって、「全国民の敵」くらいに思われたこともあったようです。もちろん置いていった隊員たちも避難の的となりました。

1957年/昭和32年、第一次南極越冬隊を迎えて、第二次越冬隊の隊員を送るために南極にたどり着いた「宗谷」は、最悪の天候と張り出した氷とに阻まれ、日本の昭和基地まで近づくことができません。
氷に囲まれて自分たちも身動きできなくなるか、あるいは越冬隊員を救助できないまま引き返すかということも考えたようです。
そして昭和基地にいる西堀榮三郎たちも、日本に戻らず南極に残るという選択肢を考えた様です。

そんな中、アメリカの砕氷船への援助も要請し、小型の飛行機が命がけで昭和基地まで飛びます。
そして、かろうじて隊員を無事救助したというのが、そのときの状況でした。

非常なブリザードはその後、「第二次越冬隊を昭和基地に送る」ことを結果的に阻んでしまいました。
西堀栄三郎たちと交代して、第二次越冬隊が基地に入ることができれば、犬たちだけ取り残されるということはありませんでした。

第二次越冬隊がすぐにタロ・ジロ達を使いたいという連絡があったので、第一次越冬隊の隊員が、樺太犬全員をくさりにつないでおいたということがあったということです。結果的には、また船に戻されてしまいましたが、第二次観測隊は一旦、昭和基地に入っているのです。

つまり、第二次越冬隊を残さずに宗谷が日本に戻ったという状況が、タロ・ジロたちの悲劇を生んだのです。

第一次越冬隊としてみれば、隊長として「隊員全員を生きて帰す」そして「日本の科学者の研究成果を持ち帰る」ということは重要な使命です。
西堀はその二つを達成しているのです。

経緯を注意深くたどると、命すらあぶない中で、南極の観測隊の隊員達は、子犬たちや鳥たちを連れて帰っているのです。

「南極越冬隊 タロジロの真実」という本の内容を紹介したサイトに経緯が細かくまとめられています。
長くなりますが、引用します。 ※下線はきゆなです

http://netabare1.com/1235.html

樺太犬のタロ・ジロを置き去りにする経緯
1957年(昭和32年)12月20日、第2次南極観測船「宗谷(そうや)は昭和基地から遙か北東の南極・エンダービーランド沖に到着し、南西に進路をとる。(時間は現地時間)

1957年12月26日、偵察に出たヘリコプターがビーバー機「昭和号」(DHC-2型)の離陸に利用できそうな海水面を発見。第2次南極観測船「宗谷」はビーバー機「昭和号」を飛ばすため、その海水面を目指す。

1957年12月31日、昭和基地の北方200km地点で、強烈なブリザードに襲われる。第2次南極観測船「宗谷」は氷に囲まれて、身動きが取れなくなり、氷と共に西へと流される

1958年(昭和33年)1月8日、接岸予定日。宗谷は身動きできないまま、西へ流され続ける。

1958年1月24日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測隊についての緊急会議を行い、今後の方針を検討する。

1958年1月31日、氷にと共に450kmほと西へと流された宗谷は、クック岬を超え昭和基地から遙か北西まで流されていた。南の風により、氷がゆるみ始めたため、宗谷は外洋へ向けて脱出を開始する。

1958年1月31日、南極地域観測統合推進本部は外務省を通じ、アメリカの砕氷艦「バートアイランド号」に救助を正式に要請。2月1日にバートアイランド号が要請を受諾する。

第2次南極観測隊の隊長・永田武はバートンアイランド号が救出に来る事を知らず、南極観測船「宗谷」の船長・松本満次と意見が対立する。

1958年(昭和33年)2月1日、宗谷は砕氷中に左舷プロペラの1翼4分3を欠き、砕氷能力の2割を失う。2月1日は指令書に記載された離岸予定日だった。

1958年2月6日午後1時30分、第2次南極観測船「宗谷」は自力で外洋に脱出する。しかし、自力での接岸は困難のため、「救助」から「接岸への救援」へ切り替え、バートアイランド号に対して再要請。バートアイランド号はこれを承諾。

1958年2月7日午後3時30分、昭和基地の北方約170km地点で、救援に駆けつけたアメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と会合。2月8日午前4時より昭和基地にへ向けて進行を開始する

1958年(昭和33年)2月8日午後6時、バートン・アイランド号も割ることができない厚い氷に遭遇し、2次南極観測隊は昭和基地から110km離れた地点で接岸となる。(第1次南極観測隊の時は昭和基地から20km地点で接岸した。)

1958年2月9日午後10時、第2次南極観測隊の隊長・永田武は、天気予報などから判断し、昭和基地にいる第1次越冬隊に対して、全員収容を通達する。

1958年2月10日午後3時45分、天候が回復してきたため、第2次南極観測隊はビーバー機「昭和号」による第1次越冬隊の収容を開始。ビーバー機「昭和号」は同日に3往復する。

このとき、第1次越冬隊は仕事の引継ぎなどの関係から、第1次越冬隊を全員収容する計画に異論を唱え、立見辰雄を交渉へ送る。しかし、立見辰雄からの連絡が無いため、第1次越冬隊員はビーバー機1便に1人乗りだけ乗り込んで宗谷へ移った。

1958年2月11日午前8時20分、第1次越冬隊の行動に頭を抱えた永田武はヘリで昭和基地へ飛び、第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎と会談し、2時間ほど昭和基地を視察。第1次越冬隊は説得に応じ、全員収容に従うことを決定する。

1958年2月11日にビーバー機「昭和号」が4往復し、2月11日午後6時5分に第1次越冬隊の収容作業を完了する。

第2次南極観測隊は、第1次越冬隊11名、樺太犬の子犬6頭、猫1匹(三毛猫のタケシ)、カナリヤ2羽を南極観測船「宗谷」に収容する一方で、計2トンの物資を昭和基地へ運び込んだ。(「南極1号・弁天さん」の行方については調査中である。)

1958年2月11日夜、第2次南極観測隊は南極観測船「宗谷」でオペレーション会議を開き、第2次越冬隊の規模を20名から9名へと縮小するとともに、輸送物資を460トンから6トンへと削減した(既に2トンを輸送しているので、残り4トンで越冬成立)。

1958年2月12日、ビーバー機「昭和号」は4往復し、第2次越冬隊3名(守田康太郎・丸山八郎・中村純二)および物資を昭和基地へ送る。

このとき、天候は悪く、既にバートン・アイランド号が氷を割って進入してきた水路も氷により、塞がれていた

1958年2月13日、バートン・アイランド号は、このままでは2隻とも氷に閉じ込められるとし、リュツォー・ホルム湾からの離脱を第2次南極観測船「宗谷」に通告し、離岸準備を始める。

当初バートンアイランド号は1958年2月16日までの停泊を約束しており、第2次南極観測隊は2月16日までの輸送計画を立てていた。

しかし、単独で外洋へ脱出できない宗谷に対して、バートンアイランド号の通告は事実上の命令であり、第2次南極観測隊は昭和基地へ送り込んだ第2次越冬隊員3名を収容し、外洋からの輸送計画へ切り替えざるを得なかった

1958年2月14日午後4時30分、第2次南極観測隊の操縦士・森松秀雄がビーバー機「昭和号」で、昭和基地に渡った第2次越冬隊員3名および第1次樺太犬のシロ子(メス犬)とシロ子が出産した子犬2匹を収容する

(シロ子を収容する詳細は「実話「南極物語」-森松秀雄の奇跡」をご覧ください。)

1958年2月14日午後6時20分、バートン・アイランド号に続き、宗谷が離岸する。

バートン・アイラインド号は砕氷作業中に、船首が氷山に突き刺さり、抜けなくなる。宗谷がワイヤーを付けてバートン・アイラインド号を引っ張るが、ワイヤーが切れる。バートン・アイラインド号は氷山を爆破して脱出。

一方、宗谷の氷陸に乗り上げてしまう。後退したときに、氷陸にぶつかり、推進シャフトが湾曲し、舵が左舷10度35分へ振れるなどして、満身創痍となる。

1958年2月17日、アメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と第2次南極観測船「宗谷」が外洋へ脱出する。宗谷は度重なる損傷により、帰国もままならぬほどの状態なっていた

宗谷はバートン・アイランド号に対して、引き続き救援を要請。バートン・アイランド号は「救助する義務は負わない」と条件付きながら、救援を承諾する。

気象データーから低気圧の襲来が予測されたため、宗谷は同水域から北上して、安全な水域で天候の回復を待つ。

1958年2月18日、第2次越冬隊の規模を7名に縮小するとともに、目的を「観測」から「昭和基地の維持」へと変更する。

1958年2月22日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測船「宗谷」に、「空輸に成功しない場合は2月24日に作業を打ち切る」と通達する。

1958年2月23日午後7時53分、第2次南極観測船「宗谷」は昭和基地から北方95kmの地点(リュツォー・ホルム湾の外洋)まで引き返し、ビーバー機「昭和号」による空輸を行うために待機するが、天候は回復しない。

1958年2月24日正午、第2次南極観測隊の隊長・永田武は越冬の断念を決定し、第2次南極観測船「宗谷」は帰路に就いた

樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を首輪につないだまま昭和基地に置き去りにした理由は、第2次越冬隊の隊長・村山雅美から「樺太犬を直ぐに使いたい」との要請があったためである。

以上 引用はここまで

 

私は西堀栄三郎が好きなままです。
気骨あるリーダーに足る人物だと思っています。

「タロ・ジロを置き去りにしたのが彼でなかったから」ではありません。

その決定を下したのは、わたしの予想では永田武です。
永田武こそ非難されるべき人物か?

そうは思えません。

日本として初めての南極越冬、そして、「宗谷」は新設された船ではありません。戦争でスクラップになるかという寸前、生き残った船をかろうじて南極仕様に改良した船です。

そういう環境と装備の中で、誰一人死なずに生きて帰ってきた。
そして今も南極観測は続いています。
もしもあそこで犠牲者が出ていたら、南極観測は途絶えていた可能性があるのです。

その功労者がおそらくは永田武でしょう。
もちろん、永田の判断には西堀栄三郎の言葉もきっと加わっていたことでしょう。

永田武は世界でも有名な物理学者でした。しかし単に世界で有名な物理学者だったということを超えた大きな人物の一人です。

いつか調べてみようと思っています。

こういうことを綴っている昨夜遅く、西堀榮三郎が「雪山讃歌」を作詞した場所に行ったという読者の方から写真が届きました。

次回紹介させていただきます。
① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

 

沖縄の教育に全力投球
たのしい教育研究所です