「どうして人々は根拠のないものを信じるのか?」という質問に答えて(1)ー楽しい学習・楽しい学力・楽しい教材・楽しい学力向上

「子ども達が元気に明るく育ってほしい、自分自身でいろいろな課題を解決していける力を身につけてほしい、と考える人は多いのに私たち大人自身が課題しを解決しようと思いながらも、いろいろなことに騙されてしまうことがあります。どうして人はこうも騙されやすいものなのでしょう」という内容のやりとりとを読者の方としていました。二回に分けて紹介します。

 テレビで「今日のラッキーカラーは緑です」という情報が入ると緑の色の入ったハンカチを持つ。

 星占いで「今日もっとも運勢の良い人はさそり座の人です」という言葉が流れると元気がでる。

「いや、別に信じているわけではないよ」と言葉ではいうけれど、行動ではそのまま信じている。学校でも「いや、信じていないですよ。いいことをいってくれた時だけ信じる様にしています」という先生たちがいました、でもそれは信じているということです。

 信頼できる根拠がないことは、占いの本によって書いていることがいろいろ違っていること一つとっても証明することができるでしょう。
 星占いには〈占星術〉〈西洋占星術〉〈東洋占術〉など、さまざまな種類があって、それぞれが「自分が正しい」という主張して、ことなる占い結果を出しています。

 そもそも〈占い〉自体、占い師が何らかの本などから得た知識や経験によって種々の占い結果を出していくわけですから、それが正しいといえる実質的な根拠はありません。

〈タロットカード占い〉は不気味さも重なっているからか、かなり当たる様なイメージがあって、映画などにも時々登場します。
 以前みた映画では、占い師がカードがきったカードを登場人物に順に引かせていって、最後に出てきたカードの並びで「あなたは今日命を失う」と予言していたけれど、それをみながら私は

もう一度カードをきって引いてもらったら
「あなたは今日大金持ちになる」
という様な占い結果になった可能性があるわけでしょう?

と突っ込んでいました。

 あるいは三人のタロットカード占い師に登場してもらって順に占ってもらい、その人の今日の運勢を画用紙に大きく書いてもらい「セーノ」で出してもらったら違うことが書かれているに違いありません。
 でも、そういうことを占い師はぜったいにしません。

「占いには科学的な根拠がない」と言われているのですけどそもそも「実証的な根拠」がないのです。「いや、この占いは当たります。どこどこのAさんはこの占いによって宝くじに当選しました」という人がいるかもしれません。でも外れた数はどれくらいあるかについては一切語ることはありません。

〈爆発物を解除するシチュエーションで赤と青のコードのどれを切るか〉という、映画によく登場するシーンがあります。

 離れた場所にいてそれをみている〈リーダー〉がばくだんを解除しようとしている部下に「今日のラッキーカラーは青だ、青いコードを切れば爆発しない、俺を信じろ、大丈夫だ」と自信をもって命令するか?
「カード占いでは赤と出た、赤を切れば解除できるぞ、よかったな」と部下に命じるか?

 そんなことはしません、本気で考えたら、そういう占いに根拠がないことはわかるからです。

 それにしてもどうして私たちはそういうものに騙されてしまうのでしょう?

 みなさんはどう思いますか?

 ぜひ周りの人たち、あるいは子どもたちに「どう思う?」と聞いてみませんか。

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たのしい教育の発想法〈板倉聖宣〉の発想を丁寧にたどる/楽しい学習・楽しい発想法・楽しい教材・楽しい学力向上

 今週の〈たのしい教育メールマガジン〉の発想法の章で紹介する内容をいろいろにつくろっています。先週はアドラー心理学の師匠〈野田俊作〉先生が著書で語った内容を紹介しました。

野田

 ときどき私の家へ宗教の勧誘が来ます。
「神様に関心はありますか?」と。
 その人たちの顔を見るとたいてい不幸そうな顔をしている。
 ・・・

 という言葉から始まる内容です。大阪人の野田先生は特有のノリがある刺激的な表現も多用するのですけど、その根幹はシンプルです。

 野田先生の言葉にリンクさせて、もう一人の師〈板倉聖宣〉先生の「願うことで真実には至らない」という話にしようかと考えはじめています。

 板倉先生は東京の下町出身で、語り口は野田先生とかなり違うのですけど、同じ様に言葉の根幹にあるものはシンプルです。
 それを私たちが納得できるように丁寧に言葉を重ねてくれます。

 始まりのところを少し紹介しましょう。

板倉

〈科学の大衆化〉というのは、それを望む人がやると科学の大衆化 ができるとは限らない。

「大衆化を望めば大衆化する」というのであれば非常に簡単な話です。

 「人間性豊かな人間になろう」、そう望んで教育すればそうなるということなら簡単なことです。

 自然科学は「そうではない」ということを教えている。

 このサイトでは始まりの部分を少し紹介しただけなので、野田先生の言葉と板倉先生の言葉がリンクする様には思えないかもしれません。

 祈りや願い、救いという部分で両者が結びついていきます。

 願いや祈りが叶ったり、平和になったり、自分が犯した罪を許してもらえるというのが宗教だとすると、たくさんの人たちが宗教を信じているロシアやウクライナで最も悲惨な戦争が続いているのはどうしてだろう。

 宗教と科学が対立するのではなく、〈宗教が人々の心をおちつけ、科学的に確かめられたものに従って淡々とすすめていくプロセスとして二つが結びついていく〉としたらどんなによいだろう。

 そういうことを考えています。

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長く続くことはよいこととは限らない- 板倉聖宣1994年 月刊たのしい授業〈続刊のことば〉から

 応援してくださる皆さんのおかげで、たのしい教育研究所(RIDE)は10年目を迎えています。〈たの研〉を強く応援して下さった板倉聖宣先生が創刊した『月刊たのしい授業』が11年目を迎えた時「長くなるとマンネリになり、創造性が失われるおそれがある」と語ったことがありました。
 今回はその言葉を紹介させていただきます。〈たの研〉の代表として強く意識しておきたいと考えています。

 板倉聖宣

 本誌『たのしい授業」は1983年3月に創刊されました。そこで本誌もこの4月には創刊以来11年目を迎えることになります。

 ふつう何事も「長く続くことはいいことだ」と思われているようです。しかし私は必ずしもそうは思いません。

 伝統が長くなると、とかくマンネリになり、創造性が失われる恐れがあります。ときには古い伝統を投げ打つ覚悟をしないと、新しい試みに挑戦することができにくくなる恐れもあります。

〈たのしい授業〉という言葉がごくごく当たり前になれば、本誌の役割の大半は失われたことになるかもしれません。そうなれば私たちはその時代の新しい要求に即した新しい雑誌を出したほうがいいのかも知れません。

 そんなわけで本誌は創刊以来、毎年新学期を迎えるたびごとに、本誌の発行を継続するか否かについて決意を新たにして、継続するなら継続の意志を鮮明にして、古くさくなった伝統を捨てても新しい課題に取り組む覚悟を語るようにしてきました。

 それも本誌の一つの伝統とも言えるわけですが、古い伝統を見直す伝統は引き継いでいきたいと思っています。

 月刊たのしい授業1994年4月号 続刊の言葉から抜粋

 ちょうど〈たの研〉もこれまでの伝統を見直し、新しい取り組みをすすめようという話になっています。
「古い伝統を見直す伝統」という言葉を胸に刻んですすめていきたいと思います。

 読者の皆さんのご意見・ご感想も大きな応援の一つです、気軽に送っていただけたら幸いです。

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「それはバッタじゃなくてキリギリスです!」という言葉/楽しい教材と〈分類〉の見方・考え方/楽しい学習・楽しい学力向上

 子どもの頃から、心動かされるものごとについては本を読んだりすることはあっても、先生に言われたことを真面目に勉強するタイプではなく、植物の名前や昆虫など細かいものを一つ一つ覚えることはしてきませんでした。
 武道にのめり込む様になってさらにその傾向が強くなり、教員試験を受ける頃まで、教科書に出てくる植物は〈ひまわり〉と〈チューリップ〉くらいしか判別できませんでした。
 また都道府県の位置と名前があまり一致せず、大阪と名古屋のどちらが沖縄に近いところにあるのかもよくわかりません。
 どうして私が教員試験に合格できたかというと、あまりにも常識的な問題は出題されることがなかったからです。そして高校レベルの理数系文章読解などは得意だったからです。

 ところで〈ひまわり〉とはどういう植物で〈チューリップ〉とどう違うのか、〈大阪〉はどういうところで〈名古屋〉はどういうところで、それぞれどういう特徴があるのかという様なことは「分類」の問題でもあります。

〈分類〉というのは人間の知的な高まりとともにどんどん複雑になっていきます。

 話は変わるのですけど、全体として繋がりますから安心して読み進めてください、最近、山道に入ってしばらく歩き、車に乗り込むと、こういう生き物が一緒にいました。

 ちょうどバックミラーにくっついたので、背中も腹も一緒に見えておもしろかった、こんな感じ。

 車を停めて植物の枝に戻してあげました、見えますか?
 写真の仲程にいます。

 大きくしてみましょう。

 しばらくするとジャンプして行ってしまったのですけど、それまで、目がこちらを向いているかの様でした。

昆虫の名前

 この昆虫の名前は何か。
 「バッタ」ですか?

 小学校に勤めていた頃、昆虫や植物にとても詳しい年配の先生がいて、こどもたちによく「これは◯◯ではなく◯◯です」と語っていました、たとえば「みなさん、これはチョウチョではなくアゲハチョウです」という様に。

 この昆虫は〈ササキリ〉というのですけど、きっとその先生は
「みなさん、これはバッタに見えるかもしれません。
 でも違いますよ、バッタはこんなに触覚が長くないんです。
 これは実はキリギリスの仲間です」と語ったことでしょう。

 たのしい教育にのめり込んでいく中で、私も都道府県の名前をしっかり覚えたり、植物や虫たちの名前にも興味関心を持つ様になってきました。

 そして広く〈分類〉についてもいろいろ学び考える様になりました。

 分類はとても興味深いテーマです。
 教育の中では先端の分類にもっていくのではなく「人類が獲得してきた科学の歴史・分類の歴史をたどって教えるとよい」というのが、たのしい教育の見方・考え方です。

 はじめのうちはチョウはチョウでよいのです。

 興味関心が高まっていくうちに、アゲハチョウとモンシロチョウとは違うことを学べば良い。
 そしてアゲハチョウの中にも〈シロオビアゲハ〉や〈アオスジアゲハ〉〈ナガサキアゲハ〉という様に分類できるのだということを知ると良い。
 もちろん私たち大人の中にも〈アゲハチョウ〉というのはどういうチョウで〈タテハチョウ〉とどう違うのかわからない人もたくさんいると思います。
 それでもみんな元気に生きています。

 チョウの細かい分類がしっかりできるのは、チョウに興味関心をもってきた人か、テストなどで良い点を取るために頑張った人たちなのです。

 さて〈ササキリ〉は確かに「キリギリスの仲間」です。

 では「ササキリはバッタではなくキリギリスの仲間です」というのは正しいのでしょうか?

 キリギリスは〈バッタ目〉という大きなグループの一つです、だからササキリをバッタと呼んでも間違いではありません。

 だってこんな姿形⬇︎をしている生き物は、チョウでもダンゴムシでもカマキリでもなく、バッタでしょう?

 あまり細々としたことを教えるのではなく、まず「これはチョウとは違ってバッタの仲間です」ということが分かれば良い、〈ゴキブリやテントウムシとは違う〉ことが分かればよいのです。

 繰り返しになるのですけど、そうやって詳しく知りたくなった人たち、あるいはたのしく教えることが可能な場合にもっと詳しく教えていく、それが科学の発展の流れと一致した方法です。

「教科書にあるから教える」とか「正しいことは押し付けてよい」というのではなく「こういう具合に教えていくと子ども達が感動的に学んでいくことができる」という方法をみつけていくことがとても大切なのです。そうでないと「これは◯◯」「あれは◯◯」とどんどん押し付けて教えていくうちに、押し付けられた方は付いて行く気がなくなっていくでしょう。

「コウモリはどうみても〈鳥〉にしか見えないのに、実はねぇ、こうこういう特徴があるでしょう、だから哺乳類の仲間なんだよね、不思議だねぇ」という様に伝えていくいく、そうやって伝えていくことで子ども達が分類に興味を持っていくとしたら素晴らしいことです。

 たのしい分類入門、というプランもできてきそうな予感がしています。

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