クイックたけとんぼ研究会|学力問題を明るく元気に!

たのしい教育研究所で新春の授業検討会が開催されました。

クイック・たけとんぼの作り方とたのしみ方のプランの言葉の検討会です。

いろいろな人達の意見でどんどんブラッシュアップしていきます。
その感じが気持ちよいです。

文章だけでなく、うまく飛ぶのかについても、かなり厳しくチェックが入っています。

実際に授業プランに書いてある通り試してみて
「〈羽のひねり〉と〈手の動き〉がうまく表現できていない」
という指摘が入り
「では、このページのここをこんな風に書き換えるとどうでしょう」
といいながら私がひっしに提案しているところです。

本質的な学力向上

「けっこう完成形になっているだろう」と思っていた原稿に、どんどん赤が入っていく様子です。

たのしい授業

たのしい教育研究所が創る授業の評価が高いのは、こういう地道なことにたのしく取り組む日々の積み重ねがあるからです。

 

学力問題に明るくたのしく取り組む
たのしい教育研究所です!

知的好奇心と創造性と優等生

新年号のメールマガジンを書き始めています。
わたしの大きなたのしみの一つです。

メルマガは「おすすめたのしい教育実践編」「映画はやめられない」と「たのしい教育の発想法」の三部構成です。

その「たのしい教育の発想法」の中に取り上げたものを少し紹介致しましょう。

「たのしい教育研究所」の応援団の一人、仮説実験授業の生みの親である板倉聖宣(現日本科学史学会会長)と、水道方式の生みの親である遠山啓が、今から45年前に毎日新聞社の要請で行った対談です。

「科学と学校教育」というシンプルなテーマですけど、中身はとても刺激的です。

読みやすくするため、文意を変えない程度に手を入れています。

板倉
私が最近考えていることに、教育でいう〈優等生とは何か〉という問題があります。
優等生というのは、権威ある他人に自己を順応させることのうまい生徒のことです。
既成の価値観に自己を合わせる生徒。
これは世界的に共通な現象ですね。

一方「研究しよう」という原動力になるものは何かと考えますと、どうも個人の知的好奇心だけではないように思います。自分もそれを知りたいと同時に、多くの人もそれを知りたがっているという世論的なものが、おそらく研究を推進する力になるのではないかと私は思います。

 

遠山
先生の顔色を見るのが上手な子が優等生になって・・

 

板倉
創造性がないんですね。

創造性とは自分の価値基準を示すことです。

ところが学校の優等生というのは誰かの価値基準に自分を合わせる子のことですから。
遠山
先ごろ毎日新聞の連載「現代学問論」の中で、湯川、坂田、武谷三氏が話し合っていましたが、その中で「愚聞が非常に大事だ」というところがありましたね。結局、原則的な問題を問うということは、愚問のような形をとるわけですよね。いまの人聞はみんな賢問しかできないんですね。

板倉
「空はなぜ青い」なんてのは、愚問のうちに入っている(笑)。
いまの優等生には愚問ではなく、賢問しかできなくなっているんです。

 

誰かの価値基準に合わせて生きるのではなく、自分の興味関心を大切にして、さらにたくさんの人達の好奇心をも担って創造的に生きることができる子ども達を育てる。

わたしの言葉で語ると、それは
『それが好きで好きでたまらない』そして『周りの人達の笑顔が大好きだ』という子どもを育てるということです。

もちろん、ごく普通の子どもも、優等生も、勉強は嫌いだという子どもも、全ての子ども達が、たのしい教育研究所の対象です。

今年も新春から全力投球しています。

 

知的好奇心の高まりを本質的な学力向上につなげる
たのしい教育研究所です

グッジョブ授業プラン「科学技術の発展/たのしいキャリア教育」の一部|たのしい事は進化せずにはいられない|ひろがる「たのかし活動」!

たのしい教育研究所の喜友名はいろいろな処での授業や講座、講演活動、教育相談などを実施しています。

そうやって飛び回りつつも、たのしい教育に興味・関心を持ってくれる方達が実施できる授業開発、授業クリエイターとしての活動にも力を入れています。

これもたのしくてなりません。

「たのしい教育教材」を開発するにあたっては、特別な材料などを利用するのではなく、学校や家庭で普通に入手出来るもの、それは難しくても100均にいけば安価で簡単に入手出来るものを利用するなど、次の目標で作成しています。

① たのしい教育を実施しようと思う先生方なら誰でも授業することができる

② 授業を受けた人たちの「たのしさ度・わかった度」が90%レベル(85〜94%)になる

 板倉聖宣「仮説実験授業ABC」の考え方をベースにしています

同時進行でいくつかの授業プランの開発が進んでいますが、この公式サイト上でも人気の「しんぶんゴマ」について、少し紹介させていただきます。

 

———- 科学技術の進歩 ———-


質問

みなさんは「コマ」の歴史をたどると、どれくらい前にさかのぼることがコマできると思いますか?
どれくらい前の人たちがコマを作って遊んでいたのでしょう?
コマといっても最近のものではなく、材料も木や実などいろいろ簡単にたのしんでいたころにさかのぼって予想してみてください。

予想 今から
ア.100年くらい前
イ.500年くらい前
ウ.1000年くらい前
エ.そのほか

どうしてそう予想しましたか?

 

いろいろなところでこういう問題を出しているのですけど、子どもも大人も
「ア.100年くらい前」
が多いようです。

みなさんの予想はどうでしょうか?

予想を立てずしてたのしく賢くなることは無理です。

続けましょう。

「日本独楽博物館」のWebサイトには「世界を見渡すと2500〜3000年前のコマも見つかっている」とあります、他の資料によると5000年くらい前までたどることができることがわかります。

 

昔のコマのイメージ

 

さて、あなたの「しんぶんゴマ」はどれくらいの時間まわすことができましたか?

30秒以上回ったという人達が何人もいました。
すごいですね。

では、よくできたコマはどのくらい回すことができるのでしょう?
コマの種類は多く、傘より大きくて一人では回せないコマもあります。それらではなく、私たちが作ったコマのように、片手で回すことができるタイプのコマで調べてみましょう。

「全日本製造業コマ大戦」といって、いろいろな工場がつくるコマを回して長さを競う大会があります。その記録によると、日本の「上坂精巧」という工場がつくったコマ  (写真)が「12分41秒」回ったということです。とても安定したコマですね。
コマ記録

 

 コマはもともとたのしみごととして出発しましたが、その後、いろいろなものに広がりました。

コマが応用されて利用されているものについて、みなさんは何か思いつきますか?

 

思いついた人は出してみましょう。

 

お話「コマの発展」

 

たとえば時計の中の重要な部分にもコマの形をした部品ものが利用されています。
時計の中 時計の中のコマ 考えてみると、扇風機も電気の力で回しているコマの様なものですね。

 

それだけではありません、科学者たちのいろいろな研究で、なんと私たちの地球も、コマの様に回っていることがわかりました。「自転」といいます。

 

ところで、科学の最先端といってよい「人工衛星」にも重要な備品としてコマが利用されているのです。「リアクションホイール」と呼ばれています。
そのコマを回すことで微妙な姿勢のコントロールをおこなっているのです。
文字通り、コマが宇宙を飛んでいるのですよ。

たとえば日本がほこる惑星探査衛星「はやぶさ」の中に入っているコマを見てみましょう。

はやぶさ©JAXA

2010年には「小惑星イトカワ」から岩石の粒を持ち帰って世界中を驚かせました。

その「はやぶさ」の内部にも三ヶ所に「リアクションホイール」と呼ばれているコマがセットされていました。

はやぶさ リアクションホイイール

©JAXA

 

 はじめは単に遊びと思われていた「コマ」でしたが、人間の知恵と工夫、それをいろいろなものに発展させてきたのです。

たのしいことなら、どんどんそれに知恵と工夫を重ねていくのが人間です。

みなさんも、自分が「これはたのしい」と思っていることについては、誰に言われたわけでなくても、自然に知恵と工夫を重ねていると思うのですけど、どうでしょうか?

それはつまりわたしたち人間の素晴らしさです。

 

というように続いていきます。

たくさんの方達が「しんぶんゴマ」を作ってたのしんでくれています。

それはそれでとてもたのしいのです。
それに加えてチャンスがあれば、子どもたちに、こういうことを話していただけるといいなと思っています。

たのしい教育は人間のすばらしさの証です。
教育が成熟してきた証でもあります。
みなさんの応援をお待ちしています。

ひろがるたのしい教育
たのしく賢くすくすくと
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人物の見方・考え方|気骨と実力ある男「西堀栄三郎」(長文)

西堀栄三郎について、何度か書きましたが、実は、彼を「大嫌いだ」という人たちもいます。
あまり語られない話ですが、人物をみるときの見方考えたということで、今回はそのことを書きましょう。

日本人が大好きな「タロとジロ」の物語をご存知でしょうか。

南極に置き去りにされた樺太(カラフト)犬たちの中で、二匹だけが厳しい寒さに耐えて生き残り、無事に救助されたという話です。

日本中を感動につつみ、小説にも絵本にも、そして映画にもなりました。

実は、犬たちを置き去りにするという決定を下したのが、そのときの第一次南極越冬隊の隊長 西堀栄三郎だといわれることがあって、「全国民の敵」くらいに思われたこともあったようです。もちろん置いていった隊員たちも避難の的となりました。

1957年/昭和32年、第一次南極越冬隊を迎えて、第二次越冬隊の隊員を送るために南極にたどり着いた「宗谷」は、最悪の天候と張り出した氷とに阻まれ、日本の昭和基地まで近づくことができません。
氷に囲まれて自分たちも身動きできなくなるか、あるいは越冬隊員を救助できないまま引き返すかということも考えたようです。
そして昭和基地にいる西堀榮三郎たちも、日本に戻らず南極に残るという選択肢を考えた様です。

そんな中、アメリカの砕氷船への援助も要請し、小型の飛行機が命がけで昭和基地まで飛びます。
そして、かろうじて隊員を無事救助したというのが、そのときの状況でした。

非常なブリザードはその後、「第二次越冬隊を昭和基地に送る」ことを結果的に阻んでしまいました。
西堀栄三郎たちと交代して、第二次越冬隊が基地に入ることができれば、犬たちだけ取り残されるということはありませんでした。

第二次越冬隊がすぐにタロ・ジロ達を使いたいという連絡があったので、第一次越冬隊の隊員が、樺太犬全員をくさりにつないでおいたということがあったということです。結果的には、また船に戻されてしまいましたが、第二次観測隊は一旦、昭和基地に入っているのです。

つまり、第二次越冬隊を残さずに宗谷が日本に戻ったという状況が、タロ・ジロたちの悲劇を生んだのです。

第一次越冬隊としてみれば、隊長として「隊員全員を生きて帰す」そして「日本の科学者の研究成果を持ち帰る」ということは重要な使命です。
西堀はその二つを達成しているのです。

経緯を注意深くたどると、命すらあぶない中で、南極の観測隊の隊員達は、子犬たちや鳥たちを連れて帰っているのです。

「南極越冬隊 タロジロの真実」という本の内容を紹介したサイトに経緯が細かくまとめられています。
長くなりますが、引用します。 ※下線はきゆなです

http://netabare1.com/1235.html

樺太犬のタロ・ジロを置き去りにする経緯
1957年(昭和32年)12月20日、第2次南極観測船「宗谷(そうや)は昭和基地から遙か北東の南極・エンダービーランド沖に到着し、南西に進路をとる。(時間は現地時間)

1957年12月26日、偵察に出たヘリコプターがビーバー機「昭和号」(DHC-2型)の離陸に利用できそうな海水面を発見。第2次南極観測船「宗谷」はビーバー機「昭和号」を飛ばすため、その海水面を目指す。

1957年12月31日、昭和基地の北方200km地点で、強烈なブリザードに襲われる。第2次南極観測船「宗谷」は氷に囲まれて、身動きが取れなくなり、氷と共に西へと流される

1958年(昭和33年)1月8日、接岸予定日。宗谷は身動きできないまま、西へ流され続ける。

1958年1月24日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測隊についての緊急会議を行い、今後の方針を検討する。

1958年1月31日、氷にと共に450kmほと西へと流された宗谷は、クック岬を超え昭和基地から遙か北西まで流されていた。南の風により、氷がゆるみ始めたため、宗谷は外洋へ向けて脱出を開始する。

1958年1月31日、南極地域観測統合推進本部は外務省を通じ、アメリカの砕氷艦「バートアイランド号」に救助を正式に要請。2月1日にバートアイランド号が要請を受諾する。

第2次南極観測隊の隊長・永田武はバートンアイランド号が救出に来る事を知らず、南極観測船「宗谷」の船長・松本満次と意見が対立する。

1958年(昭和33年)2月1日、宗谷は砕氷中に左舷プロペラの1翼4分3を欠き、砕氷能力の2割を失う。2月1日は指令書に記載された離岸予定日だった。

1958年2月6日午後1時30分、第2次南極観測船「宗谷」は自力で外洋に脱出する。しかし、自力での接岸は困難のため、「救助」から「接岸への救援」へ切り替え、バートアイランド号に対して再要請。バートアイランド号はこれを承諾。

1958年2月7日午後3時30分、昭和基地の北方約170km地点で、救援に駆けつけたアメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と会合。2月8日午前4時より昭和基地にへ向けて進行を開始する

1958年(昭和33年)2月8日午後6時、バートン・アイランド号も割ることができない厚い氷に遭遇し、2次南極観測隊は昭和基地から110km離れた地点で接岸となる。(第1次南極観測隊の時は昭和基地から20km地点で接岸した。)

1958年2月9日午後10時、第2次南極観測隊の隊長・永田武は、天気予報などから判断し、昭和基地にいる第1次越冬隊に対して、全員収容を通達する。

1958年2月10日午後3時45分、天候が回復してきたため、第2次南極観測隊はビーバー機「昭和号」による第1次越冬隊の収容を開始。ビーバー機「昭和号」は同日に3往復する。

このとき、第1次越冬隊は仕事の引継ぎなどの関係から、第1次越冬隊を全員収容する計画に異論を唱え、立見辰雄を交渉へ送る。しかし、立見辰雄からの連絡が無いため、第1次越冬隊員はビーバー機1便に1人乗りだけ乗り込んで宗谷へ移った。

1958年2月11日午前8時20分、第1次越冬隊の行動に頭を抱えた永田武はヘリで昭和基地へ飛び、第1次越冬隊の隊長・西堀栄三郎と会談し、2時間ほど昭和基地を視察。第1次越冬隊は説得に応じ、全員収容に従うことを決定する。

1958年2月11日にビーバー機「昭和号」が4往復し、2月11日午後6時5分に第1次越冬隊の収容作業を完了する。

第2次南極観測隊は、第1次越冬隊11名、樺太犬の子犬6頭、猫1匹(三毛猫のタケシ)、カナリヤ2羽を南極観測船「宗谷」に収容する一方で、計2トンの物資を昭和基地へ運び込んだ。(「南極1号・弁天さん」の行方については調査中である。)

1958年2月11日夜、第2次南極観測隊は南極観測船「宗谷」でオペレーション会議を開き、第2次越冬隊の規模を20名から9名へと縮小するとともに、輸送物資を460トンから6トンへと削減した(既に2トンを輸送しているので、残り4トンで越冬成立)。

1958年2月12日、ビーバー機「昭和号」は4往復し、第2次越冬隊3名(守田康太郎・丸山八郎・中村純二)および物資を昭和基地へ送る。

このとき、天候は悪く、既にバートン・アイランド号が氷を割って進入してきた水路も氷により、塞がれていた

1958年2月13日、バートン・アイランド号は、このままでは2隻とも氷に閉じ込められるとし、リュツォー・ホルム湾からの離脱を第2次南極観測船「宗谷」に通告し、離岸準備を始める。

当初バートンアイランド号は1958年2月16日までの停泊を約束しており、第2次南極観測隊は2月16日までの輸送計画を立てていた。

しかし、単独で外洋へ脱出できない宗谷に対して、バートンアイランド号の通告は事実上の命令であり、第2次南極観測隊は昭和基地へ送り込んだ第2次越冬隊員3名を収容し、外洋からの輸送計画へ切り替えざるを得なかった

1958年2月14日午後4時30分、第2次南極観測隊の操縦士・森松秀雄がビーバー機「昭和号」で、昭和基地に渡った第2次越冬隊員3名および第1次樺太犬のシロ子(メス犬)とシロ子が出産した子犬2匹を収容する

(シロ子を収容する詳細は「実話「南極物語」-森松秀雄の奇跡」をご覧ください。)

1958年2月14日午後6時20分、バートン・アイランド号に続き、宗谷が離岸する。

バートン・アイラインド号は砕氷作業中に、船首が氷山に突き刺さり、抜けなくなる。宗谷がワイヤーを付けてバートン・アイラインド号を引っ張るが、ワイヤーが切れる。バートン・アイラインド号は氷山を爆破して脱出。

一方、宗谷の氷陸に乗り上げてしまう。後退したときに、氷陸にぶつかり、推進シャフトが湾曲し、舵が左舷10度35分へ振れるなどして、満身創痍となる。

1958年2月17日、アメリカの砕氷船「バートン・アイランド号」と第2次南極観測船「宗谷」が外洋へ脱出する。宗谷は度重なる損傷により、帰国もままならぬほどの状態なっていた

宗谷はバートン・アイランド号に対して、引き続き救援を要請。バートン・アイランド号は「救助する義務は負わない」と条件付きながら、救援を承諾する。

気象データーから低気圧の襲来が予測されたため、宗谷は同水域から北上して、安全な水域で天候の回復を待つ。

1958年2月18日、第2次越冬隊の規模を7名に縮小するとともに、目的を「観測」から「昭和基地の維持」へと変更する。

1958年2月22日、南極地域観測統合推進本部は第2次南極観測船「宗谷」に、「空輸に成功しない場合は2月24日に作業を打ち切る」と通達する。

1958年2月23日午後7時53分、第2次南極観測船「宗谷」は昭和基地から北方95kmの地点(リュツォー・ホルム湾の外洋)まで引き返し、ビーバー機「昭和号」による空輸を行うために待機するが、天候は回復しない。

1958年2月24日正午、第2次南極観測隊の隊長・永田武は越冬の断念を決定し、第2次南極観測船「宗谷」は帰路に就いた

樺太犬タロ・ジロ・リキなど15頭を首輪につないだまま昭和基地に置き去りにした理由は、第2次越冬隊の隊長・村山雅美から「樺太犬を直ぐに使いたい」との要請があったためである。

以上 引用はここまで

 

私は西堀栄三郎が好きなままです。
気骨あるリーダーに足る人物だと思っています。

「タロ・ジロを置き去りにしたのが彼でなかったから」ではありません。

その決定を下したのは、わたしの予想では永田武です。
永田武こそ非難されるべき人物か?

そうは思えません。

日本として初めての南極越冬、そして、「宗谷」は新設された船ではありません。戦争でスクラップになるかという寸前、生き残った船をかろうじて南極仕様に改良した船です。

そういう環境と装備の中で、誰一人死なずに生きて帰ってきた。
そして今も南極観測は続いています。
もしもあそこで犠牲者が出ていたら、南極観測は途絶えていた可能性があるのです。

その功労者がおそらくは永田武でしょう。
もちろん、永田の判断には西堀栄三郎の言葉もきっと加わっていたことでしょう。

永田武は世界でも有名な物理学者でした。しかし単に世界で有名な物理学者だったということを超えた大きな人物の一人です。

いつか調べてみようと思っています。

こういうことを綴っている昨夜遅く、西堀榮三郎が「雪山讃歌」を作詞した場所に行ったという読者の方から写真が届きました。

次回紹介させていただきます。
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