「朋(とも)あり遠方より来たる また楽しからずや」-人と人との触れ合いは単なる情報収集以上の素晴らしさ

 如月(きさらぎ)某日、遠く県外から〈たの研〉を訪ねてきてくれた方がいます。古くからの知人で、とてもたくさんの知恵と元気をくれるAさん(右)です。

 最近、図書資料の話をいろいろ書いてきたのですけど、図書資料の素晴らしさはかけがえのないものとはいえ、直接的な人と人との触れ合いは、それだけでは得られないものを与えてくれます。

 たのしい授業や仮説実験授業研究会の全国的な状況もたっぷり聞かせてもらい、Aさんの魅力的な研究も具体的に教えてもらいました。

〈たの研〉とコラボできないかという話もあり、これからお互いの接点を見つけていきたいと思います。

 国語で習った漢詩は苦手だったのだけど「朋(とも)あり遠方より来たる また楽しからずや」という論語の一節は覚えている。

 太宰治は「酒嫌い」というエッセイに、この言葉を引用しています。青空文庫の大いなる業績に感謝して、その詩が含まれる前後を引用しましょう。※わかり良いように色かえしておきます

 夜、ひとり机に頬杖(ほおづえ)ついて、いろんなことを考えて、苦しく、不安になって、酒でも呑んでその気持を、ごまかしてしまいたくなることが、時々あって、そのときには、外へ出て、三鷹駅ちかくの、すしやに行き、大急ぎで酒を呑むのであるが、そんなときには、家に酒が在ると便利だと思わぬこともないが、どうも、家に酒を置くと気がかりで、そんなに呑みたくもないのに、ただ、台所から酒を追放したい気持から、がぶがぶ呑んで、呑みほしてしまうばかりで、常住、少量の酒を家に備えて、機に臨んで、ちょっと呑むという落ちつき澄ました芸は、できないのであるから、自然、All or Nothing の流儀で、ふだんは家の内に一滴の酒も置かず、呑みたい時は、外へ出て思うぞんぶんに呑む、という習慣が、ついてしまったのである。友人が来ても、たいてい外へ誘い出して呑むことにしている。家の者に聞かせたくない話題なども、ひょいと出るかも知れぬし、それに、酒は勿論、酒のさかなも、用意が無いので、つい、めんどうくさく、外へ出てしまうのである。大いに親しい人ならば、そうしておいでになる日があらかじめわかっているならば、ちゃんと用意をして、徹宵、くつろいで呑み合うのであるが、そんな親しい人は、私に、ほんの数えるほどしかない。そんな親しい人ならば、どんな貧しい肴でも恥ずかしくないし、家の者に聞かせたくないような話題も出る筈はないのであるから、私は大威張りで実に、たのしく、それこそ痛飲できるのであるが、そんな好機会は、二月に一度くらいのもので、あとは、たいてい突然の来訪にまごつき、つい、外へ出ることになるのである。なんといっても、ほんとうに親しい人と、家でゆっくり呑むのに越した楽しみは無いのである。ちょうどお酒が在るとき、ふらと、親しい人がたずねて来てくれたら、実に、うれしい。友あり、遠方より来る、というあの句が、おのずから胸中に湧き上る。けれども、いつ来るか、わからない。常住、酒を用意して待っているのでは、とても私は落ちつかない。ふだんは一滴も、酒を家の内に置きたくないのだから、その辺なかなか、うまく行かないのである。
 友人が来たからと言って、何も、ことさらに酒を呑まなくても、よさそうなものであるが、どうも、いけない。私は、弱い男であるから、酒も呑まずに、まじめに対談していると、三十分くらいで、もう、へとへとになって、卑屈に、おどおどして来て、やりきれない思いをするのである。

 太宰治「酒嫌い」より
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/18350_32522.html

 太宰治は特に注目している作家ではないのだけど、このことばの中から彼の〈酒で紛らわせる苦しい生活様式〉が伝わってきて、苦しくなる。

 それはそれとして、太宰のこの引用にもあるように「朋(とも)あり遠方より来たる また楽しからずや」という言葉は、友と一緒に酒を酌み交わすたのしさを表しているかのように書いていて、多くの日本丼もそのように解釈している感がある。
 けれど本来的には「同じ学問を志す者は、どんな遠くからでも集まって来て一緒に学ぶ。何と楽しいことだろう」ということで作られた言葉です、まぁ、表面上の言葉からはそこまでわからないのだけど。

 Aさんとの語らいの時にはビールも酒もなく、珈琲と、B先生が作ってくれた〈ゆーぬく団子〉を前に、同じく〈学ぶたのしさ〉を追求する者同士の深いたのしさがありました。

 春になったら、出張に合わせて、今度は私が尋ねていこうと思っています。日本のいろいろな処の信頼に足る友人たちと、連携して、ますます充実した活動をすすめていこうと思います。読者の皆さんで、私も〈たのしい教育の普及〉に協力したいという方は、ご連絡ください。

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いわゆる〈発達障害〉と間違われる子どもたち

 何度語ったか分からないほどの一つが「注意欠陥多動性障害/ADHDとか学習障害/LDとか不安障害、自閉症スペクトラムとか、たくさんの子どもたちが病名をつけられて特別支援の学級に送られ続けているけれど、それが騒がれはじめて以来、10倍に人数が増えるっておかしいと思いませんか? 子どもたちの数は減り続けているのに!」

 みなさんはどう思いますか?

 もちろん私は「先生自身の教育スタイルと合わない、学校のスタイルと合わない、日本の教育のスタイルと合わない子どもたちの多くが特別支援クラスに送られている」と予想していますす。

 突然、こういうメンタル的な病気・疾患が2倍、3倍というように増えていくなんて考えられないからです。

 専門家は「ADHDもLDも脳の機能障害だ」といい続け、文科省もその立場をとりましたが、MRIやPETスキャンなどいろいろな研究をし続けていても、その証拠は上がっていません。
 そんな中、その診断名をつけられる子どもたちは増え続け、子どもたちへ処方される薬も増え続けています。

 そんな中、やっとこういう本が私の目にも止まるようになりました。

「発達障害」と間違われる子どもたち

 教育実践家・PEALカウンセラーとして、〈睡眠が子どもの脳を変える〉とか、〈脳の成長バランスで発達障害もどきになる〉の部分など首を傾げるところはあるとはいえ、「発達障害と間違われる子が増えている。増えているのは〈発達障害もどき〉ではないか」という論点は、十分納得できます。

 本屋で一気読みしてあとwebでリサーチすると、同じ趣旨で本人が雑誌に書いていました→https://diamond.jp/articles/-/319451?page=2

 教育がたのしい方向に変わっていくことで、背を向けていた子どもが目を輝かせ、身を乗り出して授業にのめり込んでくれるでしょう。時間はかかっても、かつてのように支援クラスで学ぶ子どもたちは、学校で4~5人いるかいないかという状況になっていくでしょう。特支のクラスの子どもたちも、たのしい教育で自分の可能性をどんどん伸ばしていくでしょう。

 教育が方向を変えるまでには、まだ時間がかかるとおもいます。それでも脈々と流れるたのしい教育の道筋をしっかりつけておくことは大きな意義があります。周りの人たちがその具体的な流れを知る前に、読者のみなさんが、少しずつ周りのひとたちにすすめていただければ幸いです。それはきっと読者の皆さんの周りの人たちを明るく元気にするだけでなく、この教育が普通になった時に、自分の〈先見の明〉を知り、人生の満足度を増すことにもつながるでしょう。志ある方は、ぜひこのサイトを知人に紹介してください。おかげさまで、ゆっくりではあっても着実にアクセス数を伸ばし、海外の方たちも読んでくれるようになってきました。ご協力よろしくお願いいたします。

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こんなに面白い場所はなかなかないと思います-たのしい夏目漱石研究

 時間ができたらそこでのんびりしたいと考えている処がいろいろあります、その一つが図書館。よくぞ図書資料を一般の人たちに開いてくれたと、いくら感謝してもしすぎることはありません。

 図書館自体は古代ギリシャにルーツをたどることができるのですけど、広く一般の人たちに向けて本が利用できるような公共図書館は、どうも17世紀から18世紀のヨーロッパにルーツをたどることができそうです。とはいえ、まだはっきり調べたわけではないので、確定ではありません。

 先日、夏目漱石は話し言葉をカッコ閉じしているのに〈  〉、教科書に載るときに句点+カッコ閉じ〈 。」 〉にかえている、という話はいろいろな人たちから、おもしろいという評価をいただいています、ありがとうございます。

 その時に図書館でいろいろな本を手にしたのですけど、夏目漱石について以前から気になっていたことの解決の重要なデータを得ることができました。

wikipediaに感謝して掲載

 予想することが賢くなる秘訣、たのしくなる秘訣だという話はこれまで何度もしてきたのですけど、私自身が数えきれないくらいたくさんの予想を立てて棚上げしてあります。その一つが漱石は英語に堪能でイギリスに留学していたくらいなので、きっといろいろな文学作品に触れていて、それが彼の作品の重要なヒントになっているだろう、「坊ちゃん」とか「吾輩は猫である」も実は英文学に似た作品があるのではないだろうか。

 たとえば『吾輩は猫である』のように、猫が語りながら物語をすすめていく作品の構成は夏目漱石のオリジナルか?
 そうだとしたら同じ日本人として誇らしいですね。

 みなさんはどう思いますか?

予想「吾輩は猫である」のアイディアは

 ア.漱石のオリジナル

 イ.似た構成の英文学作品に影響された

どうしてそう思いますか?

 ※

 今回借りた一冊がこれ、板垣直子著『漱石文学の背景』。

 この中に、ホフマンの「雄猫ムルの人生観」という本と漱石の「吾輩は猫である」の類似性がしっかり書き込まれていすま。

 

 これをキーに、いろいろ調べていくと、漱石がホフマンのその作品に強く影響されて「吾輩は猫である」を書いたことは間違いなさそうです。

 が、趣味の範囲になりそうなので、また時間のある時に文体の比較による論証をしていくということで、ここでは、かなりの可能性としてとどめておくことにしましょう。

 そういうコンセプトを漱石が英文学から得たとしても、漱石の実力がそこなわれるわけではないと思います。
 人間の思考は周りのいろいろなものから影響を受けていくわけで、それは当然といえば当然だからです。

 自由研究というのは何も科学的なものに限られるわけではありません。予想を立てて、その謎を追いかけることは、ある教科やジャンルに縛られるものではなく、広く森羅万象に広がります。

 その答えが秘められている図書館というのは宝の山だなと思える日々です。

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板倉聖宣「たのしく学んだ知識こそ身につく」-たのしい教育の見方・考え方

 久しぶりに板倉聖宣先生のものの見方・考え方を紹介しましょう、最近のメルマガに載せた記事の一部です。

 この中で板倉先生は

たのしくなくて無理やりおぼえこまされた知識でも、(     )をするときには役立つことがあります。

と言っています。

いやいや覚えこんだものでも役立つことがあるのか?

そういう視点で読むのもよいと思います。板倉聖宣

たのしく学んだ知識こそ身につく
 民主主義の社会では、国民の一人ひとりが自ら道を開く能力をもっている必要があります。
「これからの社会をどのような方向に発展させていったらよいか」ということについて、国民の一人ひとりが意見をもたなければなりません。
 そのためには世界の地理や歴史について、また科学や経済や政治について、自分なりの判断ができなければなりません。
 いやいや勉強したのでは、そんな判断など下せるはずがありません。
 授業がたのしくなくて無理やりおぼえこまされた知識でも、だれかの仕事の下請けをするときには役立つことがあります。しかし、そういう知識は、自分自身が主人公となってものごとを判断するときには、ほとんど役に立たないのです。

月刊たのしい授業1983年3月 創刊0号より

いやいや覚えこんだものでも役立つことがあるのか?

「誰かの下請けをする時は役立つことがある」

と言っているのですけど、他にもありますね。

「競争をして、他の人たちより自分は得点が上だと自慢する時」にも役立ちます。「受験」でも役立つことがあるでしょう。

けれどそれらは時分が主人公として人生を生きていく時、新しい問題や課題が目の前に現れた時にそれを突破する力としては役立たないでしょう。

 一部の人たちでなく、多くの人たち、弱い立場の人たちも豊かに生きていける社会を作るには、たのしく学んだ知識でなくては役立ちません。

 たのしい教育に興味関心のある方は、ぜひ春の講座にお申し込みください⇨https://tanokyo.com/archives/158638

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