ヨシタケシンスケを楽しみ尽くす/「てんごくの道 じごくの道」

 ヨシタケシンスケ展を観に行った時、手に入れた記念本はこんな分厚くて見応えたっぷりです。

 暇になったら開こうと思っていると、なかなかその機会がなく、やっと数ヶ月で2回くらいかな。

 私はヨシタケシンスケのたのしみ方の達人です、今回はそのうちの一つを紹介しましょう。

 ヨシタケさんの作品はシンプルで分かりやすいのでどんどん次に次にと読み進めてしまいます。
 それをあえてゆっくり味わうようにしてみます。
 イラスト全体をパッと見るのではなく部分的に見ていくんです。
 子どもたちも深くたのしんでくれますよ。

 たとえば…

 以前紹介したこの作品の一つを使ってみましょう。

 こどもたちに下のイラストを見せてこう問いかけます、
「さて、ヨシタケさん、このイラストに何ていうタイトルをつけたと思う?」

みなさんは、どういうタイトルだと思いますか?

子供たちからは
「逮捕」とか「通せんぼ」とか「ファイト~」とかいろいろな声が上がるでしょう。 

これです!

ドヒャヒャヒャヒャという笑いが起こることも少なくありません。

 もう一つはヨシタケシンスケ展の記念本か紹介しましょう。

 これも一枚のイラスト画を部分的に見てもらいます。

1枚目 まずタイトルから

 「てんごくの道  じごくの道」
 さてどういう作品でしょう。
 どんなイラストが描かれていると思いますか?

なんか怖いことが描かれていそうですね

2枚目

3枚目

 

 

 なるほど、絵を鑑賞するわけだ
 しかもどっちも、クツをぬいで見るわけだ・・・

4枚目 天国の原画

5枚目 地獄の原画

 ドヒャヒャヒャと大いに受けるというより、子どもたちはきっと〈ニヤリ〉と笑ってくれるでしょう。

 全体を一気に見ていくと、サラリとすぎていく作品群も、こうやってたのしんでいくと、かなりゆっくり長くたのしむことができます。

 おすすめします。

 とはいえ、これは子どもたちがヨシタケシンスケさんを好きになってからにしたほうがよいとおもいます。
 もちろん「先生/お母さん、一気に見せよて」と言われたら、そうしてください。無理強いする必要は全くありません。

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

楽しいアウトドア・サバイバル感覚@舌という強力なセンサー/中谷宇吉郎のエッセイから

 日照時間が最も短い日を通過した、嬉しい冬越しの日々、好きな中谷宇吉郎の随筆をあじわっていると、「あ、ここに書いてあったのか」と長年たずねてきた文章に行き当たって喜んでいます。

中谷宇吉郎(右)と湯川秀樹/雪の科学館に感謝して参照

 『室鰺/むろあじ』というエッセイの中にありました、どうりでタイトルから探そうとして見つからないはずだ。

 私たち人間を含めて多くの動物は、初めて出会ったものを手にして「それが食べることができるのか、食べてはいけないものなのか」知ることができます。

 原始時代であっても親が教えてきたいろいろな情報があるでしょう、それらに加えて〈見た目〉〈手触り〉〈匂い〉〈軽く噛んでみる〉などいろいろなフィルターが準備されています。

 『室鰺/むろあじ』という随筆で中谷宇吉郎は、こう書き始めてあと、後半に

 伊豆の東海岸のこの温泉地では秋風の立ち始めるとともに、また室鰺が沢山漁れ出した。去年の秋の暮、少し静養の意味で、漁港と温泉とを兼ねたここの土地へ移ってきてからもう一年に近い。初めてきた時はちょうど室鰺の盛りの時期であった。通りに面して魚屋の店先には、小鰺と、室鰺との干物が一面に並べられて、秋の陽を一杯に受けながら行儀よく並んで乾されていた。それがいつの間にか段々少くなって行く中に春がきて、今また秋とともに室鰺の大群がここの海にかえってきたのを見ると、季節の移りかわりがよく感ぜられる。

 こう書いています。

 私はいわゆる食通といわれる人々の味覚を真似る気持はないが、ただ虚心に味わって見るとこういうような味の差が案外明瞭に分るような気がするのである。

 人間の舌が極微量の複雑な物質に感ずる感度にくらべては、今の精密器械などはまだまだ子供だましのようなものであろう

 中谷宇吉郎がこの文章を書いたのは1937年/昭和12年、第二次世界大戦が始まる前のことです。かなり昔だと思うかもしれません、でも〈電子顕微鏡〉もありました。光のスペクトルを測定する〈分光計〉もありました。
 放射線を測定する〈ガイスラー計数管〉もありました、X線(レントゲン)を照射して物質の結晶構造の解析もしていた時代です。

 その中で、私たち人間の舌が持っている〈極微量の複雑な物質に感ずる感度〉に比べると精密器械は子どもだましのようなものだ、というのです。

 中谷は、別のエッセイで「私たちの舌は精密機械では検出できないような極微量な物質の存在を検知する力がある」という話もしてくれています。

 それはまた項を改めて紹介しましょう。

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

たのしいお話プラン〈映画・動画・写真の歴史〉

『侍タイムスリッパー』の話を書いたところ、さっそく観に行ってくれた方たちからお礼のたよりが届いています。
 うれしいことです。

 映画はもともと大好きだったので、学校にいる時など「これは子どもたちに観せたい」という作品(マイ・フレンド・フォーエバーなど)があると、周りの先生たちに話して、学年一斉に鑑賞会をしたことがあります。

 映画の歴史についての授業をしたこともありました。

 もちろん勝手にやっているのではなく、社会科や道徳などに位置付けての正式な授業です、教師というのたのしいものです。

 こどもたちに語った「映画の歴史」を元にまとめた「お話プラン 映画・動画の歴史」というプログラムがあります。好きな人たち数名で予想をたてながらすすめることができます。

 そのままお蔵入りになってしまうのはもったいないので、加筆して紹介しましょう。※画像等はwikipediaに感謝して参照させていただきました

お話「映画・動画の歴史」

 映画好きが議論することの一つに
「映画を発明したのはエジソンかリュミエール兄弟か?」
というテーマがあります。

 絵や写真をパラパラと重ねていくと〈残像現象〉によって、動いて見えることはかなり前から知られていました。

 ジョゼフ・プラティは1831年に、円形のディスクに連続した絵を描いて、動いて見えるようにしたフェナキストスコープを発明して、たくさんの人を驚かせました。

フェナキストスコープ/wikipediaに感謝して参照

 上の円盤を回すとこう見えます⇩クリック

https://ja.wikipedia.org/

上の動画をみると、これが「アニメーション」の元祖だとわかるでしょう。

 アメリカのトーマス・エジソンは絵でなく写真フィルムを利用して、実写版でもっと長い作品を人々に提供しました。フェナキストスコープから約50年後、1983年のことです。

 のぞき窓から箱の中の動く映像をみるタイプで、キネト・スコープと呼ばれています。
 人々からお金をとって見せていました。

 それとほぼ同じ頃、フランスの「リュミエール兄弟」が「シネマト・グラフ」を公開しました、1895年のことです。


 それは、今の映写機の様に、壁に動画を投射して、みんなでそれを観るタイプです。

 リュミエール兄弟の上映会のポスターがこれです、じっさいこういう感じでみんなでたのしんでいました。

 さて、映画の映画好きたちの議論
「映画を発明したのはエジソンかリュミエール兄弟か?」
にそろそろ結論を出しましょう。

 みなさんは、エジソンとリュミエール兄弟のどちらが映画を発明したのだと思いますか?

 「映画館」で上映するものを映画と考えるとリュミエール兄弟の「シネマト・グラフ」が映画の始まりだといってよいでしょう。
 いや、一人で箱をのぞいたりしてたのしむものも映画だ、と考える人はエジソンが映画を発明したのだというでしょう。
 ただしそれは映画ではなく「動画」だという考えもあります。

 私いっきゅうは、リュミエール兄弟が発明した楽しみ方を映画と呼びたいと思っています。

 いろいろな考え方があるとはいえ、「ほぼ1900年の少し前に映画がはじまった」といってよいでしょう。
 今からほぼ100年以上前の事です。

 ※

 ところで、映画に至る前には「カメラ・写真」がありました。
 カメラ・写真の歴史もみていきましょう。
 
 まず、カメラはいつ頃からあったのでしょうか?
 予想してみてください。

結構長いので、ここまで。
評価がよければ機会をみてつづけましょう。

子どもたちへの授業の時には、その頃広がっていたインターネットの情報をどんどん出して、喜んでもらいました。

パラパラ漫画も流行って、けっこういい作品がくつも出てきました。
懐かしいたのしい思い出です。

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!

 

牛の呪い@読み物授業書@たの研/小学校高学年以上

 つい最近の記事〈中谷宇吉郎のエッセイ〉について綴っていた時、〈国語の読みもの授業書@たの研〉にしようと思っていた中谷の文章を思い出しました、『犬がなくとガラスがこわれるか」というエッセイの中に入っています。

 読み方プログラムのタイトルは『牛の呪い』にしようと思っています。

 青空文庫に感謝して引用させていただきます。
 短い文章です、読んでみてください。

 ある山奥に美しい盆地があって、周囲の山々は、うっそうたる原始林におおわれ、盆地のなかは、緑の牧草が毛せんを敷いたように密生している。

 水にも恵まれていて、水晶をとかしたような流れが、この牧草の原のなかをゆるやかにぬっている。

 気候も申しぶんなく、春さきになると、雪は早く消え、太陽がきらきらとこの流れに映えている。
 中国の昔話にある武陵桃源とは、こういうところのことだったのであろう。

 ここでは、人々も、家畜も、みな幸福に暮していた。

 ただこの別天地には一つ不思議なことがあった。

 それは、この土地ではどうしても牛が育たないことである。

 なんとかして酪農をやりたいとおもって、丈夫なよい牛をたびたび入れたのであるが、数カ月のうちに、しだいに弱ってきて、やがて死んでしまう。
 いろいろ手をつくしてみても、どうしても、牛が育たない。

〔しつもん〕どうしてこの美しい山奥の盆地では牛が育たないのでしょう?

 ア.気候が悪い

 イ.牧草がよく育たない

 ウ.その他 思いつくことがあったら出し合いましょう 

 中谷宇吉郎の文章の続きを読んでみましょう。

 気候が悪いせいでもない。

 また牧草が悪いせいとも考えられない。

 りっぱな牧草ができるところで、現に馬や羊は非常に発育がよい。

 念のために、大学へ牧草を送ってしらべてもらったが、栄養価満点という折紙がついてきた。
 それで村の人たちは、すっかり弱ってしまって、とうとう牛を飼うことはあきらめることにした。

 しかし念のために、いろいろ昔のことを調べてみたら、一つおもいあたるふしがあった。

 

 馬や羊は非常に発育がよいのに、牛が育たないという村があって、昔のことを調べたらこういうことがわかったというわけです。
 いったいどういうことがわかったのでしょう・・・

 ※ 

 それは大昔に、この村に気の荒い庄屋がいて、外からつれてきた牛を残酷な方法で殺したことがあるという記録が出てきたことである。その牛の怨霊おんりょうがたたって、その後この土地には、牛は育たないことになったのであろう。

 これでわけがわかったので、村人もなっとくして、酪農はあきらめてしまった。

 なんと「牛のたたり/牛の呪い」のせいで、この土地には牛は育たなくなったというのです。

 みなさんはそういうことが本当にあると思いますか。

予想

 ア.たたりはあるだろう

 イ.それはないだろう

 ウ.その他

 中谷宇吉郎は、それを無茶な考えだと言わず、「この村の人たちにも、ちゃんと因果律の考えがあったのだ」と続けます。

 この村の人たちの頭のなかにも、ちゃんと因果律の考えがあったのである。※因果律(いんがりつ):原因と結果を結びつけて考えること

 牛が育たないという結果があったので、その原因をいろいろと考えてみた。

 しかし原因は、気候にも、牧草にも、水にもないことがわかった。

 そこへ牛の怨霊という、原因と考えられるものが出てきたので、それを原因として、この問題に一応の解決を与えたわけである。

 中谷宇吉郎は科学者です、「怨霊のせいという原因がわかってよかったね、めでたしめでたし」と終わるわけではありません。続きを読んでみましょう。 

 ただ、この素朴な村人の因果律は、科学で使われる因果律とは、少しちがったところがある。前にもちょっといったように、科学の世界での因果律では、原因も、結果も、ともに観測しうるものであることが必要である。牛が死ぬという結果のほうは、観測というまでもなく、明白な事実である。

 しかしその原因とされた怨霊のほうは、観測にはかからないものである。

 したがって、この結論は、広義の因果律にはかなっているが、科学にはなっていない。怨霊だから非科学的であるというのではなく、観測あるいは測定にかからないものを、原因とする点が、非科学的なのである。

 しかし、ほかに考えうる原因がないのに、牛が育たないという結果は実在している。これは事実である。

ではどうしたらよいのでしょう?

怨霊のせいにしてあきらめる以外に、何か方法を思いついた人はいませんか、あったら出し合いましょう。

 何かアイディアが出ましたか?

 牛に「たたりで災いを起こす力」があるとしたら、世界中でたくさんの災いが起こっている可能性がありますよね・・・

 それはさておき、中谷宇吉郎はこう続けます。

 この事実を科学的にはどう説明したらよいかというに、それは簡単である。「なにか原因はあるのだろうが、わからない」と、これだけでよいのである。というよりも、それよりほかにいいようがない。

 なにか科学らしくこじつけると、かえって非科学的になる。

 中谷宇吉郎はあっさり、原因を牛のたたりにしてしまうのではなく「原因は〈わからない〉以上!」でよいのだと語ります。

 そう言った上で、さらにつきつめて考えてみよう、と語ります。
 ここから本格的な科学の話に入っていきます、もちろん「たたり」のせいだとはいわず、「わからない」と終わることもありません。

 これはおもしろい問題なので、もう少しつきつめて考えたいが、それには、原因および結果という言葉を、いま一度整理しておいた方がよい。

 前に、自然界には、原因そのもの、あるいは結果そのものはないといった。その点には、まちがいがない。
 しかし自然界には、二つの現象を、原因結果的にならべてみると、その関係がはっきりすることがらが、たくさんある。

 以下本書では、こういう場合に、一方を原因といい、他を結果ということにする。そして両者をならべてみて、それから新しい知識が得られることを、「原因結果的に扱える」ということに定義する。
 ところで科学の話をする場合は、どうしてもいくつかの術語を知っている必要がある。料理の話をきくときに「三枚におろす」とか、「油でいためる」とかいう言葉を知っている必要があるのと同じことである。その術語の一つに無限小および有限という言葉がある。ここでその言葉の意味を、ちょっと説明しておく。
 物理学では、無限小という言葉をよく使うが、これは「ない」という意味ではなく、観測にかからないほど微小または微弱という意味である。無限小のものは、ないとはいわないが、取扱いではゼロと同様にみなす。それに対して、観測にかかるものは有限という。一ミリグラムの百分の一ていどの微量でも、測定にかかれば有限である。

これで半分くらいです、書き始めてみたら、ずいぶん長くなってきました。

〈たのしい教育メールマガジン〉で紹介したあと、機会があればここでも紹介しましょう。
 国語の授業で小学校56年生、中学生、高校、大学生、大人までたのしめるよみもの授業書です。
 授業で利用したい方はお問い合わせください。

 送料実費700円でお届けいたします。

① 毎日1回の〈いいね〉クリックで「たの研」がもっと元気になる!⬅︎応援クリック

② たのしい教育を本格的に学ぶ〈たのしい教育メールマガジン-週刊有料を購読しませんか! たのしい教育の実践方法から発想法、映画の章ほか充実した内容です。講座・教材等の割引もあります(紹介サイトが開きます)

③ 受講費、教材費、スーパーバイズなどの費用は全て、たくさんの方達へのたのしい教育の普及、ひとり親家庭など困窮した方たちへの支援に利用されています

⭐️ 「いいね」と思った方は〈SNSや口コミ〉でぜひこのサイトを広げ、応援してください!